背中の辺りまで伸びている髪はほつれ、頬も心なしか少しこけている。
かなり、体力を消耗したんだな。
僕はそう思った。
「……無理だったようだね」
「………何で、こんな奴の体を乗っ取ることが出来ないの!? こんな奴なんかに負けるなんて……」
少女は悔しそうに言葉を吐き出す。
よっぽど悔しいのか、その目からは、大粒の涙が流れ落ちていた。
…………。
僕は、少女から『負の力』が消え去っている事に気付いた。
多分、少女が持つ全ての力を使い切ったんだろう。
もう大丈夫だ。
根拠はない。でも、僕はそう確信した。
「何で、こんな事になったんだい? 良かったら、僕に教えてくれない?」
すると、少女は小さく頷いた。
「実は………」
そう言うと、少女は僕に耳打ちをした。
ゴニョゴニョゴニョ……。
それがしばらくの間続いた。
「…………って事なの」
少女が僕の耳から離れると同時に、僕は深いため息を吐いた。
「………そんな事が」
少女の話を要約すると、こういう事だった。
八十年前、少女がまだ生きてた頃。
その頃少女は、一人の少年のことが好きだった。
とても穏やかで、誰にでも優しい、そんな少年だった。
少年の名は景綱。少女の名は小雪。
二人は幼なじみで、兄弟のように仲のいい二人だった。
そして、誰もが二人は結ばれるものだと信じて止まなかった。
二人を隔てることになった、あの日までは。
初冬のある日、小雪は景綱から、唐突に別れを告げられた。
『どうして……?』
『…………………』
景綱は何も答えずに、小雪の前から去っていった。
悲しみに包まれた小雪。
それに追い打ちをかけるかのように、さらなる不幸が小雪を襲った。
家路に就いたその途中、小雪は、いきなり暴漢達に襲われた。
殴られ、蹴られ、辱められ――――。
まさに地獄だった。
それでも家に帰り着いたその時、小雪は信じがたいものを見た。
『う、嘘………』
焼け落ちた家の前に、四つの十字架が立っている。
その十字架の真ん中に、四つの死体が貼り付けられていた。
それは………………小雪の家族だった。
『あ…………ああああああっ………!』
とどめを刺すような出来事に、小雪の精神の糸が音を立てて切れた。
その時、小雪の目の前に一人の女が現れた。
見るからにプライドの高そうな美人。その後ろには、さっき小雪を襲った暴漢達が控えていた。
どうやら、一連の出来事の黒幕は、この女のようだ。
女は小雪の髪をグイッて引っ張り、小雪の顔を無理矢理上げさせた。
そして、周りの全てが引くようなサディスティックな笑みを浮かべると、氷よりも冷たい声で、
『……あたしの景綱様に手を出すからよ。この馬鹿女』
その瞬間、小雪は全てを理解した。
――自分がこんな目にあったのも、全てを失ったのも……全部こいつのせい?
それは、小雪の全てをズタズタに切り裂き、壊してしまった。
そのまま小雪は狂い死んでしまった。
だが、小雪は成仏できなかった。
その憎しみは時を経るごとに膨らみ、そしてその憎しみは負の力へと変化した。
そして今、小雪は悪霊となり、美雪ちゃんの体に乗り移った。
美雪ちゃんとその女が瓜二つだったと言うだけで。
「……要はその女、美雪ちゃんがそっくりだっただけで、君は美雪ちゃんを呪い殺そうとしてたのか」
「……」
すると、少女……いや、小雪はふるふると首を横に振った。
「……それだけじゃないの……」
小雪は俯きながら言葉をそこで切った。
「それだけじゃない? じゃあ、何で……」
その時、僕の頭の中にある仮説が沸きあがった。
「……そう。景綱さんとあの景一って子がそっくりだったの。子供の頃のね」
小雪は一語一語噛みしめるように言葉を吐き出す。
まるで、僕の思考を全て読んだかのようなタイミングだった。
ああ、やっぱり―――――。
僕は目を閉じて頷いた。
何となくだけど、そうじゃないかとは思っていた。
だけど、本人の口から改めてそれを聞くと、やはり辛いものはある。
でも…。
僕はこの時決断した。
小雪の悲しい過去を聞いてしまった以上、このままにしておくことは……僕には出来ない。
聞くにも堪えない仕打ちを受け、全てを失った小雪。
その心の中には、今でも塞がることのない大きな傷跡を残している。
このまま放っておけば、このまま永遠に闇の中を彷徨う運命にある小雪。
人間である以上、これ以上の苦しみは味あわせたくない。
真実を知ってしまった以上、僕の取るべき手は一つしかない。
それは……。
「ちょっとだけ…。待っててくれないか?」
「……どこに行くの?」
僕は振り返らずに答えた。
「……これ以上、キミを苦しませたくないんだ。今はそれだけしか言えない」
僕の言葉の真意に気付いたのか、小雪は無言で小さく頷いた。
「……と言う訳なんですけど」
(うーん、あたしの力じゃ無理かも)
僕は綾さんと話し合っていた。
とりあえず、僕は綾さんに全ての話を説明。
その上で、小雪を救うことが出来るかどうか、僕は聞いていた。
でも、綾さんの答えは、「ノー」だった。
「そんなこと言わないでくださいよ」
僕は必死に綾さんに頼み込んだ。
文字通り、僕は必死だった。
あんな悲しい話を聞かされた以上、是非とも小雪を救ってやりたい。
このまま、小雪を放っておくのは余りにも忍びない。
何だか、それが僕に課せられた義務のように思っていた。
(…………あ)
ふと、綾さんが何かを思い出した。
(零一君…。一つだけ方法があるよ)
「ほ、ほんとですか?」
僕の顔が輝く。
(その前に、目を覚まして……)
綾さんの声が頭の隅々に響く。
目の前の闇が歪んでいく……。
気が付いたときには、僕は元の世界に戻っていた。
「それって、どういう方法なんですか?」
僕は起き上がるなり、綾さんに聞いた。
すると、綾さんは無言で僕をベランダまで引っ張り出した。
「綾さん……?」
冬の柔らかな日差しの中、僕らは向かい合う。
だが、綾さんの様子がおかしい。
どこがどうとは言えないんだけど、とにかく、いつもの綾さんじゃない。
言うならば、昨晩の綾さんの雰囲気と同じだ。
「零一君、君に伝えたいことがあるんだ……」
「……はぁ」
とりあえず頷く僕。
「……本当に知りたいの?」
……?
綾さんの言葉の意味が理解できず、困惑する僕。
そんな僕の反応に、綾さんは冷たい視線と共に、再び口を開いた。
「だから、本当に知りたいの?」
「はい」
何が何だか分かんないけど、僕はあっさりと頷いた。
すると、綾さんはボソッと呟くように言った。
「……方法は一つだけあるよ」
「そ、それってどんな手段なんですか?」
すると、綾さんはグッと僕に近づいてきた。
無意識のうちに、僕は頭を後ろに引こうとする。
だが、
ガッ!
………!
綾さんの両手が僕の頭を掴んだ。
「ちょ、ちょっと! 綾さん?」
慌てる僕を無視して、綾さんは僕を引き寄せる。
…………
少しずつ縮まる距離に、赤面する僕。
そして遂に、額と額が触れあいそうな程の距離まで達した。
「あ、綾さん?」
「……零一君。今から言うことは、ほんとに重大なことだから、ちゃんと聞きなよ」
「……はい」
僕はひたすら首を上下に振った。
「……先に言っておくけど、その方法でいった場合、あたしら……死ぬかも知れない」
……!!
僕は絶句した。
ピントのはずれた僕の視線が、宙を彷徨う。
「目を反らさないで!」
綾さんの声が、僕の意識を元に戻した。 「あ、綾さん? そ、それって、ど、どういう事なんですか?」
すると、綾さんは目を閉じた。
「………簡単よ。今君の中にいる小雪って子と、今は多分天国にいる景綱って子。その霊体をあたしらに乗り移らせて、お二人様ご対面、って状況を作っちゃうの」
「………」
「ただ、その術を使うのには、物凄い量の精神エネルギーを必要とするの。今のあたしらだったら、その術を使ったら……多分、エネルギーが空になる」
「と、言うことは……」
僕の声に、綾さんは目を閉じたまま頷いた。
「……そう。その二人に身体を乗っ取られるか、あるいは、そのまま死んじゃうか…。どっちにしても、無事でいられる可能性はゼロに近いの。……それでもいいの?」
………
僕は、しばし呆然と立ち尽くした。
だが、『無事でいられる可能性はゼロに近い』
その言葉が、何回も何回も、僕の脳裏をよぎる。
今の綾さんの雰囲気から言っても、恐らく本当のことなのだろう。
死ぬのは確かに怖い。でも、小雪を救ってやりたい………。
相反する二つの気持ちが、交互に僕を襲う。
しばし僕は、葛藤と戦った。
葛藤と戦った末に、ふと、僕はあることに気付いた。
「綾さん」
「何? 零一君」
「もしも……もしもですよ。仮に僕が、その術をすることにしたら………その時、綾さんはどうするんですか?」
すると、綾さんは即答した。
「あたしだったら、別にオッケーだよ」
「…………………え?」
信じられないような綾さんの答えに、僕の思考回路は完全に崩壊した。
「ど、どうして……どうしてなんですか? 赤の他人の僕のわがままに付き合って、間違いなく命を落とすことになるのに…。どうして、そんなにあっさりと同意できるんですか!?」
目の焦点も合わず、錯乱しきった僕の言葉がむなしく宙を舞う。
「………何でなんだろうね」
ポツリと綾さんが呟いた。
「え?」
「……今までのあたしだったら、絶対こんな事しようとは思わなかった」
「じ、じゃあ、どうして……?」
綾さんは軽く首を振った。
「分かんないよ。そんなの」
綾さんの答えは簡潔だった。
「……でもね。零一君がこの術をやりたいって言うんだったら、あたしも付き合ったげる。それだけは確かだよ」
………
綾さんの言葉が、僕の胸の奥底まで染み込んでいく。
そして、言葉の中に含まれた様々なエッセンスが、僕の心を見事なまでに震わせた。
いつしか、僕の目には涙がうっすらと浮かんでいた。
「綾さん……僕は」
すると、綾さんはイタズラっぽく笑うと、右手の人差し指を僕の唇にそっと当てた。
「……言わなくても分かってるよ。あの子を助けたいんでしょ?」
「………分かってたんですか」
すると、綾さんは僕の瞳を覗き込むように顔を再び近づける。
そして、満面の笑みを顔に浮かべた。
「だって……零一君、優しすぎるから」
「そう……なんですか?」
僕の声に、綾さんは軽く頷いた。
「だって、零一君がフツーの子だったら、ここまであたしに付いてこないでしょ? それに……」
「それに?」
綾さんは一呼吸置いて、再び口を開いた。
「……それに、この術って、あたしがいなかったら出来ないんだよね」
「……あっ」
確かに、綾さんの言うとおりだった。
この術をするには、一組の男女が必要だ。
そして何より、綾さんしかその術を行えないんだから、それは当然の事だった。
その瞬間、僕の肩から力が抜け、何かが吹っ切れたような気がした。
そして、僕の決意は固まった。
「綾さん……」
「はい」
僕は綾さんと向かい合った。
「お願いします。あの二人の願いを叶えるために、あなたの生命……僕に預けてください」
すると、綾さんは満面の笑みを浮かべながら、大きく頷いた。
「喜んで」
それを聞いた次の瞬間、僕は思わず笑った。僕の笑い声につられて、綾さんも笑い出す。
「はははは……」
「ふふふふ……」
二人の笑い声が、冬の空に吸い込まれていく。
何となく、僕は奇跡が起きるような気がした。
……もちろん、根拠は何一つとしてないんだけど。