夜道。
僕は夜空を見上げ、呟いた。
多少雲が出ているものの、それでも月は夜空にポッカリ浮かんでいる。
「あの、月が出てなきゃダメなんですか?」
「うん。綾さんのメモにはそう書いてある」
真夜の疑問に、綾さん直筆のメモをヒラヒラさせながら僕が答える。 「何で月が出てないとダメなの?」
澪ちゃんの質問に、僕は再びメモに目を通した。
メモにはちょっと崩れた感じの綾さんの字がつらつらと綴られている。
「えっと……月には特別な力があって、その力の源である満月の晩じゃないとうまくいかない……か。何でそんなこと知ってるのかな?」
当然の疑問を僕は口に出した。
「……あの子、不思議なところあるからね。でも、今のところはまだ大丈夫みたいね」
「そうだね」
「すいません………私なんかのために」
すまなそうに真夜が言った。
「いいよ別に。好きでやってることだから」
「そうそう。気にしちゃダメだよ」
「……はい」
真夜は静かに頷いた。
目的地に着いたとき、既に夜の三時を迎えていた。
そこは、廃工場の敷地内だった。
焼け焦げた柱が、月明かりを浴び、その存在を誇示していた。
「あーあ、遅くなっちゃったね、零君」
「……後二時間半と言ったところか。ぎりぎりだな」
腕時計に目をやりつつ、僕は静かに言った。
午前三時十分。夜明けまで後三時間弱と言ったところか。
「ここなら、いくら騒いでも大丈夫ね」
澪ちゃんが大きく手を広げ言った。
どうやら、ありったけのパワーを綾さんから得たみたいで、しばらくは人間のままでいれるみたいだ。
「……中から月も見えるし、条件も揃ってますね」
……よくこんな場所があったよな
真夜の声に、メモに目をやりながら、僕はそっと呟いた。
今僕達がいる建物は元々工場だったのだが、数年前の火事で廃墟となっている。
その時焼け落ちたのだろうか、屋根の大部分が消え、そこから夜空が見える。
ちなみにメモには、術を行う場所の条件として、広い、しかも壁に囲まれた、更に言えば天井がない建物という、よくよく考えれば無理に近い注文だった。
……運がいいのかな、この場合
僕がそう思うのも無理はない。
実際、今から行う術自体が、奇跡みたいなものであるのだから。
「零君、早くしようよ!」
澪ちゃんが焦れたように手をブンブンと振った。
その姿を見た瞬間、僕の脳裏に一抹の不安がよぎった。
その不安が急速にふくれあがり―――。
「……ちょっと待って」
無意識の内に声が出てしまった。
「………どうしたの、零君?」
怪訝そうな表情で、澪ちゃんが声を上げた。
だが、僕はそれを無視し、真夜を見た。
「真夜ちゃん」
「……はい」
僕の真剣な表情に、自然と真夜の表情も硬くなった。
「……実は、綾さんのメモの最後にこう書かれていたんだ。『この術は成功する確率はゼロに等しい。失敗したら術師もろとも死ぬ可能性が高い』って」
「……………え?」
「その上であえて聞くよ。キミにその覚悟はある?」
「……………」
余りにも衝撃的な僕の言葉に、真夜は言葉を失った。
「零君、何て事言うの!」
澪ちゃんが叫ぶように言った。
その表情を見る限り、今すぐにでもつかみかかられそうな感じ。
「………僕だって言いたくはなかったよ」
「………え?」
僕の言葉に、澪ちゃんは目を点にした。
少し間を置いて、僕は静かに口を開いた。
「……あの子が人間に戻れたとき、本当にあの子にとっていいことなのか、分からなくなったんだ」
僕の掠れた声が、工場の中に響く。
「仮に人間に戻れたとしても、誰も頼る人はいないし、逆にまたいじめられるかも知れない。本当は、あのままの方が幸せなのかも知れない………」
そこまで言ったとき、僕の右の頬に鋭い痛みが走った。
――――――!?
たまらず、僕は尻餅をついた。
「馬鹿!」
よろよろと起き上がった僕の目に、怒り満面の澪ちゃんの姿が映った。
「………澪ちゃん」
叩かれた右頬に手をやり、呆然とする僕。
「零君、何か勘違いしてない?」
「勘違い?」
「そう、勘違い! 術をやって、真夜ちゃんが人間に戻れるかどうかは別として、人間になった後のあの子の幸せなんか、あたし達には分かんないし、分かる必要はないんだよ! あの子が幸せかどうかは、あたし達が決めるんじゃない、あの子自身が決めることなんだよ!」
機関銃みたいに一気にまくし立てる澪ちゃん。
だが、そこまで言われたところで、僕はようやく自分の愚かさに気付いた。
………綾さんに言われたことと同じだ
僕が最初に綾さんに出会ったとき、綾さんはこう言った。
『夢ってのは自分で見つけるものなんだよ?』
よく考えると、夢も幸せも、他人がどうとか言うのではなく、自分がどう受け止めるか、感じるかによって決まるもの。
結局、決めるのは自分自身なんだ。
……そうだ、そうだったんだ………
僕は呆然と立ち尽くした。
「あの………零一さん」
呆然とする僕の耳に、真夜の声が聞こえた。 「………真夜ちゃん」
僕が顔を上げると、すぐ目の前に真夜が立っていた。
その表情からは、何か決意を感じる。
「私…………人間に戻りたいです。死ぬのは確かに怖いです。でも………」
真夜はそこで一旦言葉を切ると、自分を落ち着けるかのように二、三度深呼吸した。
「でも………やらなきゃ人間に戻れないんだったら、私我慢します。怖いのは嫌だけど。でも、零一さんがいてくれたら、私頑張れるんです。ですからお願いします。私を助けて下さい。お願いします!」
最後の方は涙声だったが、それでも、真夜の覚悟は十二分に僕に届いた。
「…………分かった」
僅かな沈黙の後、僕は静かに頷いた。
「本当ですか!?」
「うん、僕はもう……迷わない」
僕は心の中で、その言葉を反復した。
どんなことがあっても………僕は迷わない、と。
「じゃ、その上に座って」
「はい」
僕の指示で、真夜は床に座り込んだ。
真夜の周りには、何かの図形が描かれている。
「零一さん……これ、何ですか?」
「結界だって。綾さんのメモによると」
メモをヒラヒラさせ、僕は静かに言った。
もっとも、実際のところこれが何の意味を持つのか、自分でさえ分かっていないのだが。
……よし、始めるか
と、僕が思ったその時。
「零一さん、ちょっといいですか?」
声と共に、真夜が僕に寄りかかった。
「な、何?」
思い切り動揺する僕に、真夜は僕の胸に頬を寄せると、目を伏せそっと囁いた。
「……怖いんです。だから、ちょっとだけこのまま……」
その瞬間。
……やっぱり、怖いんだ
そう思うと共に、僕の頭の中にいろんな感情が流れてきた。
生まれてから、ずっと一人きり、不遇の人生を送ってきた少女。
誰の助けもなく、ずっと孤独に生きざるをえなかった少女。
彼女にとって、今唯一すがりつくことが出来るのは自分だけではないのか?
そして、彼女を助けることが出来るのも自分だけではないのか?
だとしたら、僕の役目は―――
「……うん」
僕は静かに頷くと、そっと真夜の肩に手を当てた。
これでいい。
迷うことなく、自分の思うままに頑張ろう。
僕はそう心に決めた。
「ありがとう……」
真夜のか細い声が僕の耳にそっと届いた。
しばしの時間が流れ。
「零君、準備できたよー!」
澪ちゃんの声が聞こえる。
僕はゆっくりと真夜の目を見た。
真夜は無言で頷いた。
「良し、始めようか」
「はい!」
もはや、真夜にも僕にも不安はない。準備は全て整った。
「えっと……………」
僕はあぐらをかき、手を組むと、一心不乱にメモに書いてある呪文を唱え始めた。
「………………」
工場の中を奇妙な静寂が包む。
聞こえるのは、風の音と、遠くで聞こえる電車の音。そして僕の唱える呪文だけ。
………どうかうまくいきますように………
澪ちゃんはどこかにいるはずの神様に成功を祈った。