横道春重(よこじ はるしげ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。通称・藤兵衛。天正十一(1583)年、西伯耆(会見・日野・汗入郡)に南条軍が攻め込んできた際、末次元康・福頼元秀・井上春佳らと共に撃退した。

横田頼助(よこた よりすけ)


生没年:?〜?
官位 :越後守
居城 :石見国吉賀郡柿木能美山城
列伝 :吉見一族。吉見姓を与えられ、吉見越後守とも称す。吉見隆頼・正頼の元で家老を勤め、吉見五家老の一人とされた。
吉見正頼が挙兵し、陶軍が侵攻してくると、嫡子・頼綱らと共に吉賀郡柿木能美山城に篭城し、奇計を持って敵将・端土太郎を討ち取った。

横田頼綱(よこた よりつな)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :石見国吉賀郡柿木能美山城
列伝 :吉見家臣。頼助の子。1554年の陶軍侵攻に際し、奇策を持って陶軍を打ち破った。

横見政綱(よこみ まさつな)


生没年:?〜?
官位 :和泉守
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。井上春忠・鵜飼元辰と同格の立場だった。
備中兵乱の際、備中手之城を預けられた。

横山景義(よこやま かげよし)


生没年:?〜1593
官位 :肥前守
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。椋梨景家・亀門景信らと共に秀包につけられた。朝鮮侵攻の際、碧蹄館の戦いで、先手大将を勤めるが、横からの奇襲を受け、戦死した。

横山成藤(よこやま なりふじ)


生没年:?〜?
官位 :左馬頭
居城 :不明
列伝 :大内家臣だったが、義隆死後、吉見正頼に仕えた。

横山正重(よこやま まさしげ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。吉見惣領家改易後、萩藩に召抱えられた。

横山盛資(よこやま もりすけ)


生没年:?〜?
官位 :備前守
居城 :備後国深安郡小森館
列伝 :備後杉原家臣。弘治三(1557)年、杉原盛重が神辺城(神辺町)主になると、その重臣だった横山盛資・盛政親子が勢力を拡大した。
のちに杉原家が内訌によって滅亡した後も、小早川・吉川両家の援助により知行安堵された。
関ヶ原後に毛利家が減封された後は帰農した。

吉井元武(よしい もとたけ)


生没年:?〜?
官位 :左馬介・相模守
居城 :不明
列伝 :通称平右衛門。大内家に属していたが、後に毛利家に属した。毛利家が陶家と断交し広島湾沿岸諸城を攻撃した際、五日市で起こった戦にて戦功を挙げた。
後、筑前立花山城を巡る合戦の際にも飯田義武と共に立花山城の偵察に向かう。この時、大友方との戦闘により元武は負傷した。

吉賀興光(よしが おきみつ)


生没年:?〜?
官位 :掃部助
居城 :石見国吉賀郡陣賀城
列伝 :吉見家臣。天文年間、長嶺宗久らと共に陣賀城将を勤めた。

吉賀元貞(よしが もとさだ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。弥二郎・小兵衛・惣左衛門とも。
吉見家に仕えていたが、吉見広長誅殺により吉見家が滅亡すると、赤木頼定・伊藤元利と共に召し抱えられた。

吉賀頼貞(よしが よりさだ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。通称惣左衛門。弘治二(1556)年、吉見家臣・上領休世(頼兼)と共に、益田家の黒周原城を攻略するために進軍中、喜島宗勝の奇襲にあい、捕らえられ、人質として利用された。
大内輝弘が山口に侵入した際、吉見軍を率いて援軍に向かうも敗戦し手傷を負う。
後に永禄七(1564)年、因幡鹿野に出陣した。
天正八年、阿武郡高佐郷五石余・吉部郷二石五斗余・得佐郷二石四斗・大井郷一石を知行された。

吉田興種(よしだ おきたね)


生没年:?〜1569
官位 :左兵衛尉・若狭守
居城 :不明
列伝 :大内義長の元で侍大将を勤める。後に毛利家に降伏するが、1569年、大内輝弘の周防侵攻に呼応して挙兵するも、あえなく討ち取られた。

吉原次秀(よしはら つぐひで)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :安芸国佐東郡銀山城
列伝 :大内家臣。天文一〇(1542)年、安芸武田家が滅亡すると、大内義隆の命により城番として銀山城に派遣された。

吉原元親(よしはら もとちか)


生没年:?〜?
官位 :豊後守
居城 :備後国世羅郡杉城
列伝 :備後国人。世羅郡を本拠にする。毛利家に臣従する。嫡子・元種は杉城の北にある瀬賀山城に居城していたが、毛利家が防長に移封されたのに従い、神村と姓を改めた。なお、次男備前守親俊は世羅郡にとどまった。

吉見興滋(よしみ おきしげ)


生没年:?〜15
官位 :備中守
居城 :不明
列伝 :吉見一族か。本姓波多野。大内家臣。奉行人を務め、二度、遣明船で明に派遣された。
大内家滅亡後は毛利家に降り、大庭賢兼・河屋隆通・岩正興致らと共に山口奉行の補佐を務める。
後に冷泉元豊と共に門司城の城将に任じられるが、大友軍の反攻にあい、落城・討死した。

吉見興重(よしみ おきしげ)


生没年:?〜?
官位 :備前守・越前守
居城 :不明
列伝 :吉見頼豊の子。義隆期に奉行人を勤めた。子の越前守の代で吉見惣領家が改易された為、追放され、豊前岸に在住するも、孫の金右衛門が岸野と姓を改め、再び毛利家に召抱えられた。

吉見興成(よしみ おきしげ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見頼興の子。通称源右衛門。一部の系譜では、興成が10代目の当主とするものもある。

吉見隆宗(よしみ たかむね)


生没年:?〜?
官位 :越後守・右馬助
居城 :石見国鹿足郡五反畠蕣城
列伝 :吉見頼員の嫡子。吉見正頼が陶に反旗を翻した際、五反畠蕣城に父とともに篭城するも落城。
落城時に討死されたとされるが、実際には出家し、後に天正九年頃には還俗し、頼員と共に重臣として署名を行っている。

吉見隆頼(よしみ たかより)


生没年:?〜1540
官位 :不明
居城 :石見国吉賀郡三本松(津和野)城
列伝 :吉見正頼の兄。1532年に父・頼興から家督を受け継ぎ活躍するも、若くして死去した。

吉見就頼(よしみ なりより)


生没年:1607〜1676
官位 :阿波守・出雲守・右京進・隠岐守
居城 :不明
列伝 :吉川広家の子。旧名:吉川政春。筑前黒田家の養子に入る事になっていたが、吉見家臣団の要請により、吉見広頼の養子となる。後に加増を受け、吉見姓を廃し、大野毛利家の当主となる。因みに、吉川一門の中で、毛利姓を名乗る事を許されたのは、繁沢元氏(元春次男)と就頼の二人だけであった。

吉見範弘(よしみ のりひろ)


生没年:?〜1553
官位 :備前守
居城 :不明
列伝 :吉見一門。陶軍が吉見攻めを開始した際、波多野滋信・秀信親子と共に長門嘉年城で陶軍を迎撃するも、力尽きた。

吉見広長(よしみ ひろなが)


生没年:1580〜1618
官位 :大蔵大輔
居城 :石見国吉賀郡三本松(津和野)城(現・島根県鹿足郡津和野町)→長門国阿武郡指月城(現・山口県萩市)
列伝 :旧名:広行。吉見広頼の次男。兄・元頼の死により家督を相続した。
家臣の下瀬頼直共々朝鮮に渡り、武功を挙げている。
だが、毛利秀元が長門一国・周防吉敷郡に封じられた事に不満を持ち(阿武郡の領有)、一時出奔するも許される。
関ヶ原後、毛利家が防長に移封された際、広長もこれに従い長門へ移るものの、本領の五分の一以下の二〇〇〇石という知行に不満を持つ(実際には広頼の隠居領一一三九石・一門の有倉頼助の八〇〇石と合わせ三九三九石)。
それによりまたも出奔。各大名家に仕官を求め流浪するも上手くいかず、結局許され帰参。三〇〇人扶持(三六〇石に相当)を与えられる。
だが、輝元の暗殺未遂の容疑をかけられ、一族共々誅殺された。
これにより、石州の名門であった吉見家は断絶した。ただ、吉見の血脈は、大野毛利家として続いている。

吉見弘成(よしみ ひろなり)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。大内義興期〜義隆期に奉行職を務めた

吉見広頼(よしみ ひろより)


生没年:1545〜1616
官位 :三河守・大蔵大輔
居城 :石見国吉賀郡三本松(津和野)城(現・島根県鹿足郡津和野町)→長門国阿武郡指月城(現・山口県萩市)
列伝 :吉見正頼の嫡男。吉見家第12代当主。幼名は亀王丸。
吉見家と陶家との和睦の際、人質として山口に送られる(その後、自力で脱出した)。
その後、毛利家重臣として各地を奮戦するものの、嫡男・元頼を朝鮮で亡くし、次男広長は誅殺。さらに、二人目の正室や娘などにも皆先立たれるなど、家庭的には不幸だった。
更に広頼本人も輝元殺害の嫌疑をかけられ、一族揃って自害し、鎌倉以来の名門である吉見家はあえなく滅亡した(ちなみに、吉川広家の三男・政春を広頼の養子にし(吉見就頼)、後に大野毛利家として血筋だけは受け継がれることになった)。

吉見弘頼(よしみ ひろより)


生没年:?〜?
官位 :右衛門尉・備中守
居城 :不明
列伝 :石見吉見一族か。大内義興の元で奉行人を務める。永正五(1508)年、義興にしたがって、上洛している。

吉見正頼(よしみ まさより)


生没年:1513〜1588
官位 :三河守・大蔵大輔
居城 :石見国鹿足郡三本松(津和野)城(現・島根県鹿足郡津和野町)→長門国阿武郡指月城(現・山口県萩市)
列伝 :吉見頼興の四男。吉見家第11代当主。
四男と言うこともあり、幼少時は城下町の興源寺に入り、周鷹と名乗る。
1540年、正頼28歳の時、長兄・頼隆(隆頼)が死去。家臣団から推挙され、吉見家第11代当主となる。
大内義隆の妹を正室とし、大内一門として、大内家に近い家の一つとなる。
1551年、大内義隆が大寧寺にて自刃した後、杉興運と共に反陶晴賢派の筆頭となる。
1554年、三本松城で挙兵。堅城として名高い三本松城と、正頼の奮戦、そして毛利元就の影からの援助により、講和し、辛くも痛み分けの結果となった。
この時、嫡子亀王丸(後の吉見広頼)を人質にとられた。 厳島合戦後の毛利家による周防侵攻の時、毛利軍に同調し、阿武郡の所領奪回及び山口に侵攻し、毛利家に従する。
その際、本領である石見鹿足郡及び、長門阿武郡・周防佐波郡一万五千石を安堵される。
その後は、毛利家外様の重臣として、主に、九州戦線(対大友戦)において活躍した。
1582年、備中高松への出陣を最後に長門指月(萩)へ隠居。そのまま当地で死去する。


吉見元頼(よしみ もとより)


生没年:1574〜1594
官位 :不明
居城 :石見国吉賀郡三本松(津和野)城(現・島根県鹿足郡津和野町)
列伝 :吉見広頼の嫡男。通称・次郎兵衛。病弱な父に代わって各地を転戦した。
朝鮮出兵の際は末次元康隊に属し、各地で朝鮮軍を撃破。
また慶尚北道礼安の民政、民心鎮撫を行うなど、その活躍は多彩に亘った。
将来を嘱望されていた元頼の死により、吉見家の行く末に暗雲が立ち込めた。

吉見頼明(よしみ よりあき)


生没年:?〜?
官位 :因幡守
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。本姓は上領。吉見姓を名乗る許可を得ていたものと思われる。
陶軍が三本松城を攻囲した際、板垣甲斐守・田村平兵衛・水津新左衛門らと共に下瀬山城を守った。この時、益田家臣・寺戸大学兼勝から誘降の書状が送られてくるもこれを拒否した。

吉見頼興(よしみ よりおき)


生没年:1460〜1532
官位 :式部少輔・三河守
居城 :石見国鹿足郡三本松城(島根県鹿足郡津和野町)
列伝 :石見吉見家9代目当主。兄・信頼から家督を受け継ぐ。
文明十四(1482)年、兄・信頼が山口で陶弘護と刺し違えた後、大内家に忠誠を尽くし、各地で戦功を挙げた。
その結果、信頼の代に失っていた吉賀郷を取り戻した。

吉見頼員(よしみ よりかず)


生没年:?〜?
官位 :阿波守・安房守
居城 :長門国阿武郡平山星城(現・山口県阿武郡阿東町)
列伝 :吉見正頼の異母弟で平山星城(ひらやまほしのじょう)の城主。しかし1552年7月11日の大内義長の書状で須佐郷は益田藤兼に渡ってしまうすると隣接する矢富郷を守る頼員と須佐郷を任された益田兼貴との間に緊張が走るしかも1553年10月に主君・正頼が大内離反を宣言すると頼員は強固な平山星城を防衛するが町野隆風の蝶略にはまり城は落とされてしまう。
が、厳島後防長に侵攻した毛利軍に吉見正頼は同調し再挙兵。頼員は上領頼規と共に手勢を率い山口へ侵攻した。

吉見頼郷(よしみ よりさと)


生没年:?〜?
官位 :丹後守・右衛門尉
居城 :不明
列伝 :吉見一門。大内義興末期〜義隆期に奉行人を務める。

吉見頼重(よしみ よりしげ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見頼実(正頼の弟)の子。大内義長討伐に軍功があり、阿武郡内に所領を給付され、指月に居住した。

吉見頼盛(よしみ よりもり)


生没年:?〜1614
官位 :兵庫介
居城 :不明
列伝 :吉見一門。正頼の従弟。
天正十(1582)年、吉見正頼・広頼親子が備中高松城の援軍として出陣した際、留守居として下瀬山城に在城した。
後に吉見惣領家が断絶した後は石見大森銀山に向かった。

吉安豊英(よしやす とよひで)


生没年:?〜?
官位 :刑部
居城 :不明
列伝 :冷泉隆豊の弟。大内家滅亡後、隆豊の子・元豊・元満兄弟と共に毛利家に仕官した。

吉安満定(よしやす みつさだ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :冷泉家臣。通称太郎兵衛。朝鮮出兵にて元満が討死した時、満定は所用で他所に居たが、すぐに馳せ戻り敵から元満の遺骸を奪還し、日本に返す事に成功した。

米原景儀(よねはら かげよし)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :尼子→毛利家臣。美作祝山城の在番をしていたが、羽柴秀吉の調略にあい、毛利から離反した。

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