多賀山通続(たかのやま みちつぐ)


生没年:1506〜1570
官位 :伯耆守
居城 :備後国蔀山城
列伝 :備後国人の一人で、山内家の一門。久意(ひさおき)とも言う。尼子家に属すも、独立を試みて失敗。尼子軍に居城を攻撃されるも、かろうじて落城を免れた。後に毛利家に属した。

高橋鑑種(たかはし あきたね)


生没年:?〜1579
官位 :三河守・左衛門大夫・左衛門尉
居城 :筑前国三笠郡宝満城→豊前国規矩郡小倉城
列伝 :一万田親敦の次男。入道名・宗仙。筑後の高橋長種の養子となる。
天文二一(1552)年、大友晴英(大内義長)が山口に入部する時、橋爪らと共に奉行人として山口に赴く。
弘治三(1557)年、大内家滅亡により豊後に戻り、反旗を翻した秋月文種を破る。
この功により筑前三笠郡を与えられ、宝満城・岩屋城を築き、筑前の守護代的地位に躍り出る。
だが、鑑種は次第に大友家の叛意を現し、安楽寺天満宮留守職に小鳥居氏を任じるなど、公然と大友家の意向に反する行動を始め、ついに永禄五(1562)年、毛利隆元や毛利家臣・山田満重の勧誘により毛利に通じた。
(通説では大友宗麟が鑑種の兄・一万田鑑相を殺害しその妻を奪ったと言う事が原因とされているが、実際にはそれ以前に毛利家に通じていた)
永禄一〇(1567)年、秋月種実・立花鑑載・宗像氏貞・原田了栄・筑紫惟門らと共に一斉に挙兵。しかし、美作・備後・周防・出雲で次々と起こった内乱の為に毛利軍が撤退すると、降伏し、小倉城に移される。
小倉城へ移ってからも北九州における反大友の中心的な存在として機会を伺っていたが、日向耳川で大友軍が大敗すると俄に動き始める。
天正七(1579)年、豊前蓑島で挙兵した杉重良を討ち取ると、続いて田川郡香春岳城・馬ヶ岳城を攻略し、田川一郡の切り取りに成功する。(この時、香春岳城に高橋元種・馬ヶ岳城には長野種信を入れている)
だが、この行動が命取りになったのか、間もなく小倉城で病死した。

高橋種冬(たかはし たねふゆ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :豊前国小倉城
列伝 :秋月文種の子で、父の死亡時に家老の大橋豊後守に預けられた内の一人。元服した後高橋鑑種の養子となる。後には豊前小倉城主となった。

高橋元種(たかはし もとたね)


生没年:1570〜1614
官位 :右近大夫
居城 :豊前国田川郡香春岳城→日向国県(延岡)城
列伝 :秋月種実の次男で、高橋鑑種の養子となり、北九州の反大友派の一翼を担う。後に九州征討の時秀吉に降伏。豊前から日向県五万石に転封される。
関ヶ原では実兄・秋月種長と行動を共にし、結果として本領安堵されも、改易された元石見津和野藩主・坂崎直盛の縁者をかくまった罪により改易され、一族である立花宗茂の下に流され、陸奥棚倉において死去した。

多賀元龍(たが もとたつ)


生没年:?〜1579
官位 :左京亮
居城 :出雲国飯石郡羽倉山城
列伝 :出雲国人。尼子家に仕えていたが、大内義隆が出雲に侵攻した際に従属する。
が、大内軍の敗退により、宍道正隆と共に山口に逃れる。後に大内家滅亡により、毛利家に仕える。
出雲侵攻の際に、長屋元定とともに戦功を挙げ、尼子家滅亡後は故地に復帰した。
後に長門美禰郡に移される。

多賀谷興頼(たがや おきより)


生没年:?〜1555
官位 :不明
居城 :安芸国安芸郡丸子山城
列伝 :安芸国人。倉橋島付近を領する。大内家に属し、義隆死後は陶家に属した。
毛利軍の侵攻に会い、嫡子興基と共に討たれ、多賀谷家は滅亡した。

多賀谷武重(たがや たけしげ)


生没年:?〜?
官位 :宮内少輔
居城 :不明
列伝 :大内家臣。通称・孫二郎。後に入道宗賢。山城・船岡山合戦において戦功を挙げた。 義隆死後は陶家に仕え、後に毛利家に属した。

多賀谷春定(たがや はるさだ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。通称・孫太郎。永禄一一年九月、筑前立花山城の援軍として入城した。

瀧口吉盛(たきぐち よしもり)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣だったが、弘治年間に毛利家に降る。
小早川隆景に属し、周防佐波・吉敷郡内に所領を給された。

竹井将監(たけい しょうげん)


生没年:?〜1582
官位 :将監
居城 :備中国都宇郡早島城
列伝 備中国人。諱は不詳。恐らく石川・清水家に属していたと思われる。
天正一〇(1582)年、羽柴軍の備中高松侵攻の際、冠山城に援軍として籠城。
奮戦するも落城。将監は加藤清正と一騎討ちの果てに討ち取られた。
後に秀吉は将監の武勇を称え、法事を行ったとされる。

竹井直定(たけい なおさだ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :三村家臣。通称宗左衛門。天正二(1574)年、桂元盛・赤川元之・岡元良らとともに備前勝山城将を勤める。
備中兵乱の際には三村親成と共に離反に反対。後に備中松山城攻防戦では毛利家に内通した。

竹内久盛(たけうち ひさもり)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :美作国久米郡一之瀬城
列伝 美作国人。京都公家の出で、永正年間に美作に移住。
後に毛利家の傘下に入り宇喜多家と戦うも、天正一〇(1580)年、宇喜多勢に敗北、一之瀬城は陥落した。
現代に伝わる竹内流古武術はこの久盛が祖とされる。

竹内弘時(たけうち ひろとき)


生没年:?〜1554
官位 :豊後守
居城 :石見国吉賀郡萩尾城
列伝 :吉見家臣。家老を務め、吉見正頼の代には吉見五家老の一人となった。
1554年、陶軍の猛攻により、討死。

竹内頼継(たけうち よりつぐ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。吉見隆頼の家老を勤める。
天文九年、吉見隆頼が陶光長と刺し違えると、友倉長元と共に急ぎ津和野に戻り、この事を伝えた。

武田宗慶(たけだ そうけい)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :安芸武田光和の庶子とされる。通称小三郎。武田光和死後、武田光広(信重)の代わりに宗慶を擁立しようとした香川光景の工作により養母(毛利元就夫人の姪)と共に周防玖珂郡欽明路峠に匿われた。
その後毛利家に召抱えられ、元就の影武者となった。
後に周防武田家の祖となる。

田坂善景(たさか ぜんけい)


生没年:?〜1550
官位 :不明
居城 :備後国小坂城
列伝 :沼田小早川家臣。全慶とも。隆景の小早川家相続に反対した為、後に乃美隆興らによって討ち取られた。

多治部景勝(たじべ かげかつ)


生没年:?〜?
官位 :治部大輔
居城 :備中国阿賀郡潮城(塩ヶ城、塩山城)
列伝 :備中国人。景治の子。関ヶ原合戦に参戦したとされる。

多治部景忠(たじべ かげただ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :備中国阿賀郡潮城(塩ヶ城、塩山城)
列伝 :備中国人。永正一二(1515)年頃、備中守護・細川政春の被官となる。
同年、徳光氏・伊達氏と共に新見庄(新見市)へ侵攻、新見氏と激しく争った。
天文一五年、三村家親の攻撃の前に降伏。
天文二一年六月、毛利・三村連合軍が備中猿掛城を攻撃した際、尼子晴久の命により石蟹・伊達両氏と共に備中笠岡で合戦に及んだ。

多治部景治(たじべ かげはる)


生没年:?〜1595?
官位 :雅楽頭
居城 :備中国阿賀郡潮城(塩ヶ城、塩山城)
列伝 備中国人。阿賀郡多治部郷(現岡山県新見市)を本拠とし、新見庄(現・岡山県新見市)を領していた新見氏や楢崎氏と争った。
庄家と組み三村家に対抗したが、天文十五(1546)年、三村家親の攻撃により落城、一時的に閉塞していたが、備中兵乱で毛利方に付き、楪城攻めで武功を上げ、旧領復帰に成功した。
備中兵乱後は毛利家臣・福頼元秀に属し、美作国人・竹内久盛が毛利に与した際、援軍として赴いたり、播州上月城攻撃にも参加するなど、毛利軍の一員として奮戦した。
文禄四年未(1595年)三月十五日他界。法名(戒名)は「丹丘院殿白翁浄雲大居士」
(山本さまより情報を提供していただきました。ここに御礼申し上げます)

田中政重(たなか まさしげ)


生没年:?〜1554
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。天文二十三(1554)年、折敷畑合戦で討死した。

田中元通(たなか もとみち)


生没年:?〜?
官位 :豊前守・東市介
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。旧姓・政所。田中政重が折敷畑合戦で討死した後、その婿養子となり、田中家を継承する。

田部通政(たべ みちまさ)


生没年:?〜?
官位 :隼人正
居城 :不明
列伝 :備後山内家臣。通称・宗左衛門尉。永禄三年、毛利に与した出雲国人・赤穴家の中で尼子家への義理立てで挙兵した赤穴家臣・森田・烏田を討伐した際、戦功を挙げた。

玉木吉保(たまき よしやす)


生没年:1552〜1633
官位 :土佐守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。玉木忠吉の子。天正一五年長門大津郡・翌一六年周防大嶋郡・翌一七年出雲仁多郡・一八年安芸高田・佐東・佐西・石見国内の検地作業に従事した。
「身自鑑」の作者として有名。当時の生活様式を探る史料となっている。

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