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水津清家(すいづ きよいえ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。弘治三(1557)年、吉見正頼から阿武郡内で三五石を与えられた。

水津頼勝(すいづ よりかつ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。通称・半右衛門。吉見家改易後、落合正信らと共に毛利家に召抱えられた。

末国光氏(すえくに みつうじ)


生没年:?〜1556
官位 :伊豆守・左馬介
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。周防鞍掛山城主・杉隆泰が降伏した際、その人質である有永加賀守を預かる。
後に鞍掛山城を攻略した際、元就の命により周防御庄(岩国市)で有永を討ち取ろうとするも、有永と刺し違えた。

末国元光(すえくに もとみつ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。天正八(1580)年頃まで、淡路岩屋城に援軍として派遣された。

陶 貞明(すえ さだあき)


生没年:?〜1557
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :陶長房の弟。通称・小次郎。周防冨田城が落城した際、竜文寺に潜伏していたが、杉重輔・正重兄弟に攻められ、自刃した。

陶 隆満(すえ たかみつ)


生没年:1497〜?
官位 :安房守・兵庫頭
居城 :不明
列伝 :大内家臣。陶持長と同一人物と考えられる。
『源氏物語』を蒐集した事で知られている。義隆期に奉行人を勤め、「大内殿有名衆」では小座敷衆とする。
天文二〇(1551)年、陶に与し山口を襲う。大内義隆死後、大内義長が豊後から山口へ入る際これを迎え、山口まで送ったが、後に毛利家に降る。

陶 隆弘(すえ たかひろ)


生没年:?〜1551
官位 :中務少輔
居城 :不明
列伝 :陶隆康の嫡子。陶晴賢の謀反の際には、義隆を逃がすため、父隆康と共に戦い、討ち死にした。

陶 隆康(すえ たかやす)


生没年:?〜1551
官位 :右馬允
居城 :不明
列伝 :朝倉(陶)弘詮の子。大内義隆の近習から侍大将となる。後に従兄弟・陶晴賢の謀反の際には、義隆を逃がすために戦い、討ち死にした。

末武済氏(すえたけ すみうじ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。通称・孫兵衛尉。慶長六年閏十一月、十五石の知行を給された。

末武忠氏(すえたけ ただうじ)


生没年:?〜?
官位 :上総介
居城 :不明
列伝 :大内家臣で、阿武郡に所領を持っていたが、大内家滅亡により、阿武郡を領した吉見家に仕える。
吉見家滅亡後は浪々の身となるが、五代後の頼勝の代に毛利家臣となった。

末近信賀(すえちか のぶよし)


生没年:?〜1582
官位 :越前守
居城 :備後国御調郡羽倉城(広島県御調郡久井町)
列伝 :小早川家臣。通称・四郎三郎。仁政を敷き、領民に慕われていた。備中高松城に監軍(お目付け役)として入城し、宗治と共に奮闘するも、開城の際、宗治と共に自害した。
辞世は「敵とみえしは群れてる鴎(かもめ) 鬨(とき)の声と聞こえしは 浦風なりけり 高松の朝の露ぞ消えにける」

末次元康(すえつぐ もとやす)


生没年:1560〜1601
官位 :大蔵大輔
居城 :出雲国末次城→備後国沼隈郡神辺城
列伝 :毛利元就の八男。出雲国人・末次家を継承する。後に実兄の椙杜元秋死去により、月山富田城に入る。後に神辺城に転封。関ヶ原の戦いにおいては西軍派と東軍派の融和に力を注いだ。後に厚狭毛利家七〇〇〇石の祖となる。

末長景道(すえなが かげみち)


生没年:?〜?
官位 :左近太夫・常陸介
居城 :安芸国堀ヶ城
列伝 :後に磯兼姓。因島村上家臣だったが、厳島合戦の折、敵将・伊香賀十郎左衛門尉を討ち取る大手柄を立てた。合戦後は小早川水軍の将として活躍。
隆景死後、毛利家臣に編入。実子なく、乃美宗勝の三男・景綱を養子に迎えた。

末長景盛(すえなが かげもり)


生没年:?〜?
官位 :常陸介
居城 :安芸国堀ヶ城
列伝 :盛平の子。堀ヶ城を築城し、末長姓を称した。
小早川水軍の一人として、豊前蓑島沖海戦等で活躍した。

陶 長房(すえ ながふさ)


生没年:?〜1556
官位 :不明
居城 :周防国都濃郡富田若山城
列伝 :陶晴賢の嫡子。毛利軍周防侵攻の際、富田若山城を守っていたが、杉重輔の奇襲を受け、討ち取られた。

陶 信勝(すえ のぶかつ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :陶長房の遺児と言う。若山城落城の際、乳母に引き連れられて、安芸方面に逃れたとされる。

陶 晴賢(すえ はるかた)


生没年:1521〜1556
官位 :尾張守
居城 :周防国都濃郡富田若山城
列伝 :旧名:隆房。後に入道し、全姜。陶興房の次男。父興房が死んだ時、既に兄は死去していたため、陶家を相続し、大内家筆頭家臣として大内義隆を支えるも、祐筆の相良武任と対立。
更には文芸にうつつを抜かす義隆とも不和となり、ついに1551年、謀反を起こし、義隆を葬ってしまう。
その後、豊後より大友晴英(大内義長)を迎える。1553年、石見で挙兵した吉見正頼の討伐に向かったものの、その最中で毛利元就が反旗を翻す。1555年、厳島で戦死した。自害の瞬間、彼は何を思ったのだろうか。

杉 興運(すぎ おきかず)


生没年:1511〜1551
官位 :不明
居城 :筑前国花尾城
列伝 :大内家において、筑前守護代として、少弐氏・龍造寺氏と熱い戦いを繰り広げる。陶晴賢の謀反の際、義隆殺害を支持したため、後に攻撃を受け、戦死した。

杉 興重(すぎ おきしげ)


生没年:?〜?
官位 :兵庫助・三河守・民部大輔
居城 :不明
列伝 :後に出家して宗長。義興・義隆期の奉行人。豊前国社奉行を務める。永正五(1508)年、山城国愛宕郡代に就任。天文六(1537)年、従五位に叙任。後に評定衆の一人に名を連ねている。

杉 景教(すぎ かげのり)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。隆真とも言う。尼子方に付いて滅亡した友田氏の代わりに厳島神社の神主となった。

杉 重輔(すぎ しげすけ)


生没年:?〜1557
官位 :伯耆守
居城 :豊前国松山城
列伝 :杉重矩の嫡男。毛利軍周防侵攻の際に、富田若山城に奇襲を仕掛け、城主・陶長房を討ち取った。後に、防府にて殺害される。

杉 重信(すぎ しげのぶ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣、豊前守護代を勤める。
天文三(1534)年、陶興房・佐田朝景らと共に大友軍と豊後勢場ヶ原で激突。吉弘氏直・寒田親将を討ち取る。
同年9月、筑後で星野親忠を討ち取るなど、主に九州戦線で戦功を挙げた。

杉 重矩(すぎ しげのり)


生没年:1496〜1551
官位 :伯耆守
居城 :豊前国松山城
列伝 :大内家において、豊前守護代として、城井氏・大友氏などと熱い戦いを繰り広げる。陶晴賢の謀反においては義隆殺害には同調したものの、その後対立し、討ち取られた。

杉 重良(すぎ しげよし)


生没年:1554〜1579
官位 :不明
居城 :豊前国松山城
列伝 :杉重輔の嫡男。父・重輔の死後、四歳で杉家の家督を継承。父の居城であった豊前松山城を任されるも、1579年、突如として大友方に寝返り、豊前蓑島にて挙兵する。が、豊前小倉城将で、高橋家の再興の好機と立ち上がった高橋宗仙(鑑種)に攻められて討死した。

杉 重吉(すぎ しげよし)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :豊前国苅田松山城→蓑島城
列伝 :大内家家臣。大内家滅亡後、毛利家に降り、苅田松山城代を勤めるも、大友軍に城を奪われた。後に蓑島城主になるが、1579年、大友に寝返った長野助盛に攻められ、奮戦もむなしく再び敗れ去った。

杉 鎮頼(すぎ しげより)


生没年:?〜1577
官位 :木工助
居城 :不明
列伝 :大友家臣。隆泰の子。鞍掛城落城後豊後に逃れ大友家に仕え、後に耳川合戦で討死した。

杉 隆景(すぎ たかかげ)


生没年:?〜1551
官位 :弾正忠
居城 :筑前国糟屋郡若杉山城
列伝 :杉興運の子。大内義隆死後、陶軍が豊前に侵攻。隆景は父と共に抗戦するも、国人衆の寝返りにより城を脱出。糟屋浜にて討ち取られた。

杉 隆重(すぎ たかしげ)


生没年:?〜?
官位 :弾正少弼
居城 :豊前国京都郡蓑島城
列伝 :大内家臣だったが、天文二十三年大友義鎮に降り、蓑島城を築城した。

杉 隆季(すぎ たかすえ)


生没年:?〜1557
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。杉隆泰の弟。長門竜山城にいたが、大内義長没後、豊浦郡松屋で賊に殺害された。

杉 隆相(すぎ たかすけ)


生没年:?〜1585
官位 :不明
居城 :周防国都濃郡一の井手城
列伝 :後に元相。大内家に仕えていたが、毛利軍の防長侵攻により、毛利家に降伏。毛利隆元から一字拝領し、元相と名乗る。後に嫡子元宣が暗殺され、杉家は断絶した。

杉 隆哉(すぎ たかや)


生没年:?〜?
官位 :因幡守
居城 :豊前国妙見岳城?
列伝 :豊前守護代・杉重矩のもと、妙見岳城督を勤める。大内家滅亡後は、田原親賢に城を明け渡すも、1561年に毛利に寝返る。

杉 隆泰(すぎ たかやす)


生没年:?〜1557
官位 :治部少輔
居城 :周防国玖珂郡鞍掛山城
列伝 :大内義長の家臣として鞍掛山城を守る。毛利軍が侵攻した際に降伏したが、かねてより仲の悪い椙杜隆康に攻められ、あえなく討ち取られた。

杉 連緒(すぎ つらつぐ)


生没年:?〜?
官位 :豊後守
居城 :豊前国鞍手郡龍ヶ岳城・田川郡香春嶽城
列伝 :大内家臣だったが、後に毛利家に降伏。豊前の要衝・香春嶽城を守った。
後に大友家と毛利家の和睦の際、条件の一つに香春嶽城の破却があったが、高橋・宗像らと共にこれに反発。ぎりぎりまでそれを阻止しようとした。

杉 長相(すぎ ながすけ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :周防国玖珂郡成君寺山城
列伝 :大内家臣。通称小次郎。毛利軍の防長侵攻の際、山代衆の残党と共に成君寺山城に籠り抵抗した。

杉原景良(すぎはら かげよし)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :杉原春良の子。関ヶ原合戦の際、勢州安濃津城攻撃において高名をあげた。

杉原隆盛(すぎはら たかもり)


生没年:?〜?
官位 :越前守
居城 :備後国鷲尾山城
列伝 :旧名:木梨高盛。後に元清と名乗る。杉原光恒の子。尼子家の攻撃により父を失い、一時は滅亡するも、大内義隆の援助により、再興を果たした。後に小早川隆景に属し、兄弟の契りを結んだ。その後、石原忠直に城を攻められ、討ち死にした。

杉原直重(すぎはら なおしげ)


生没年:?〜1615
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣か。豊臣家が諸国より浪人を集めた際、大阪城に入城。元和元年五月七日、摂津木津で討死した。

杉原直盛(すぎはら なおもり)


生没年:?〜1562
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :杉原直良の子。通称・太郎左衛門尉。
永禄五(1562)、石州福屋合戦において熊谷信直勢に属し、討死した。

杉原春良(すぎはら はるよし)


生没年:?〜?
官位 :内蔵允
居城 :不明
列伝 :杉原理興の子。兄直良に子が無かった為、家督を継ぐ。
故あって河野家に仕え、六〇〇〇石を賜っていたが河野家断絶後、毛利家に仕えた。

杉原元恒(すぎはら もとつね)


生没年:?〜?
官位 :民部大輔
居城 :備後国御調郡木梨城・鷲尾山城・千光寺山城
列伝 :杉原隆盛の子。別名木梨元経。小次郎・又五郎とも。
元亀三(1572)年、石原忠直の攻撃を受け、父が戦死。この時元恒は、古志豊長を頼り、新庄大庭山城に逃れる。
後に小早川家の援助を受け、石原氏を討ち、鷲尾山城を奪還した。
文禄四(1995)年、輝元の命により、周防爪止庄に移る。

杉原盛成(すぎはら もりしげ)


生没年:?〜1615
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣か。豊臣家が諸国より浪人を集めた際、大阪城に入城。元和元年五月七日、摂津木津で討死した。

杉原盛重(すぎはら もりしげ)


生没年1532〜1581
官位 :播磨守
居城 :備後国沼隈郡神辺城→伯耆国会見郡泉山城
列伝 :杉原理興の一族で、理興の没落後、吉川元春の推挙により、杉原家を継いだ。1564年、伯耆の行松正盛が死ぬと、その後家を娶らせ泉山城主に任命し、伯耆方面の支配を担った。

杉 正重(すぎ まさしげ)


生没年:?〜1557
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :杉重矩の次男。兄と共に、若山城を攻め陶長房を討ち取ったが、大内軍の反撃にあい討死した。

杉 元重(すぎ もとしげ)


生没年:?〜1557
官位 :民部大輔
居城 :不明
列伝 :大内家臣。大内義長に最期まで仕え、長門且山城にて自刃した。

杉 元宣(すぎ もとのぶ)


生没年:?〜1589
官位 :不明
居城 :周防国都濃郡一の井手城
列伝 :毛利家臣。通称・小次郎。周防野上(徳山)の地を領した。
児玉元良の娘を正室にしていたが、輝元の命を受けた椙山土佐・清兵衛親子・佐世石見守以下の策謀によって妻を奪われる。
天正一七(1589)年、家来とともに大坂の秀吉に輝元の悪行を直訴しに行くが、その途中、事態を重く見た小早川隆景の手勢によって討ち取られた。天正一七年三月六日の事だった。

杉元規(すぎ もとのり)


生没年:?〜1557
官位 :伯耆守
居城 :不明
列伝 :大内家臣。重規・重吉とも。興泰の子。厚狭長貞寺で自刃した。

椙杜隆康(すぎもり たかやす)


生没年:?〜?
官位 :右京亮・信濃守
居城 :周防国玖珂郡蓮華山城
列伝 :大内義長の配下として蓮華山城を守っていたが、毛利軍の侵攻に際し、いち早く降伏。同じく降伏していた鞍掛山城主・杉隆泰の寝返りを察知し、これを注進。隆泰を討ち取る。後に、元就の五男・元秋を養子に迎える。

椙杜元秋(すぎもり もとあき)


生没年:1552〜1580
官位 :不明
居城 :周防国玖珂郡蓮華山城→出雲国月山富田城
列伝 :毛利元就の五男。椙杜隆康の養子となる。後に月山富田城主となり、尼子残党の蜂起に対しても、守役、天野隆重の助力により月山富田城を守り抜いた。若くして病死する。

杉 行並(すぎ ゆきなみ)


生没年:?〜1555
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。上杉憲実の次子で、杉興行の養子となった。厳島合戦で討死した。

杉 吉重(すぎ よししげ))


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。内藤元種の娘を娶る。天正一六年、長門豊田郡内で一〇〇貫を給される。

杉 良久(すぎ よしひさ)


生没年:?〜?
官位 :蔵人
居城 :不明
列伝 :大内家臣。大永三年、玖珂郡山代八ヶ郷の検地の竿頭を務めた。

菅田宣真(すげた のぶさね)


生没年:?〜1551
官位 :越中守
居城 :安芸国槌山城
列伝 :大内家臣。筑前宗像氏の一族。旧姓宗像。大内義隆によって安芸に派遣され、在所の地名を取り、菅田姓を名乗った。
晴賢謀反後、安芸の地盤を固めるために攻め込んで来た毛利軍に対し、子の宣種・大林隆廉・尾和種親・財満隆久と共に槌山城に篭城するも、降伏し、毛利家臣となった。

須子辰盛(すこ たつもり)


生没年:?〜?
官位 :佐渡守
居城 :長門国阿武郡須子須古山城(現・山口県阿武郡須佐町)
列伝 :吉見家臣。吉見元頼に従い、朝鮮で武功を上げた。

須子秀国(すこ ひでくに)


生没年:?〜?
官位 :若狭守
居城 :長門国阿武郡奈古櫛崎城(現・山口県阿武郡須佐町)
列伝 :吉見家家臣。別名・奈古若狭守。奈古櫛崎城を守っていたが、益田軍の攻撃により落城する。が、後に吉見正頼が阿武郡を回復したとき「鷲江山」で激戦があり、正頼から感状を受け取った(櫛崎城は下関にもあるが、全く別の城である)。その後、毛利元就から城もろとも阿武郡の安堵権を貰い奈古櫛崎城を改修した。

須子宗棟(すこ むねとう)


生没年:?〜?
官位 :長門守
居城 :長門国阿武郡須子須古山城(現・山口県阿武郡須佐町)
列伝 :列伝 :須子一族の本家、須子家は伯耆会見の出身で先祖の生田宗詮が叔父の横領にあい益田の須子須古山城(すこすこやまじょう)へ移ったのが始まり、飛び地として阿武郡桜村も領した。
その後1474年7月28日付けで益田貞兼に領地が移り、領地は桜村のみとなった、宗棟は津和野合戦で活躍し吉見正頼から感状を貰っている、分家として須子秀国が居る。

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