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塩谷元真(しおや もとざね)


生没年:?〜?
官位 :豊後守
居城 :美作国祝山城
列伝 :毛利家臣。姓は塩屋ともされる。天正八(1580)年、三須兵部・湯原春綱・小川元政らと共に美作医王山城に籠城。宇喜多軍を撃破した。

敷名元範(しきな もとのり)


生没年:?〜1595
官位 :兵部少輔・左衛門大夫
居城 :備後国旗返城
列伝 :毛利(相合)元綱の子。備後敷名郷を与えられ、敷名姓を名乗った。
後に備後国人・馬屋原家の婿養子となった。

繁沢元氏(しげさわ もとうじ)


生没年:1523〜1592
官位 :伊勢守
居城 :石見国浜田城
列伝 :吉川元春の次男。旧名・仁保元棟。周防の名族、三浦家の名跡を継ぐ(後に三浦元忠に譲られた)。1587年、石見へ転封された際に繁沢と姓を変える。後に阿川毛利家の祖となった。

繁沢元景(しげさわ もとかげ)


生没年:?〜?
官位 :志摩守
居城 :不明
列伝 :吉川一門。元氏の子。後に阿川毛利家の祖となり毛利姓を称す。
大阪冬の陣の際、家康の命により吉川広家と共に摂津江口に堰を作るべく工事を行った。
後に元和五年、輝元の次男・就隆と秀元の娘・松菊子の婚約の媒酌人となった。

重松幸忠(しげまつ ゆきただ)


生没年:?〜1588
官位 :治部丞・加賀守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。永禄三年佐波郡鈴屋三石・五ヶ野尻五石、岸見麻生方給地一〇石、計一八石を支給された。

重松幸利(しげまつ ゆきとし)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。幸忠の子。幸忠死後家督を継ぐも、半分の九石のみ安堵された。

重見通種(しげみ みちたね)


生没年:?〜1555
官位 :因幡守
居城 :伊予国風早郡石井山城
列伝 :大内家臣。かつては伊予・河野家臣だったが、享禄三(1530)年挙兵するものの、敗北。備後に一旦逃れ、その後大内義隆に仕えた。
厳島合戦では、陶方の右翼一手として塔ヶ岡本陣右に陣を張ったが、毛利軍に撃破。
通種は捕縛され、毛利家への仕官を勧められるもこれを固辞し、自害した。
なお、通種の子である、木原通繁・小原通兼・栗原通員は毛利家に仕えている。

宍戸隆家(ししど たかいえ)


生没年:1518〜1592
官位 :左衛門尉・安芸守
居城 :安芸国高田郡甲立五龍城
列伝 :安芸国人。父・元家が早世した為、叔父の隆忠の補佐を受け家督を継ぐも、奸臣の讒言により隆忠を誅殺した。
天文二(1533)年、毛利元就の長女を正室に娶る。これにより毛利家において隆元・元春・隆景と同格の扱いを受け、主に吉川元春と共に軍事行動を行い、毛利家の中国制覇・伊予や北九州侵攻で活躍した。
また、毛利家と山内家との奏者(取り次ぎ役)を勤め、備後北部の国衆を『御一手衆』として編成するなど、備後北部の国衆支配を担った。

宍戸元親(ししど もとちか)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。飯田義武・児玉就方・飯田元著・浦元信らと共に川の内警固衆の指揮官に任命された(当時の川の内警固衆の構成員は安芸武田旧臣の福井・山県・福島・熊野・世良・植木・豊嶋など)。

宍戸元行(ししど もとゆき)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。天正一六年、石川種吉の後任として長門大津郡司に任じられた。

志道就良(しじ なりよし)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。弘治三年九月一八日、周防玖珂郡河内郷文銭八貫目を恩賞として賜った。

志道元保(しじ もとやす)


生没年:1533〜1582
官位 :大蔵少輔・上野介
居城 :不明
列伝 :毛利譜代家臣。志道広良の嫡孫。安芸国人・野間隆実の矢野保木城攻撃の際、明神山の新城を奪回しようとした後援部隊を撃破した。
後に市川経好・兼重元宣・財満忠久・赤川元保・坂元祐・乃美宗勝・吉見正頼らと共に下口警固(対大友の押さえ)にあたる。

下見安綱(したみ やすつな)


生没年:?〜?
官位 :民部丞
居城 :不明
列伝 :大内家臣。義興・義隆期に奉行人を勤めた。

品川勝盛(しながわ かつもり)


生没年:1545〜1565
官位 :不明
居城 :石見国美濃郡久城普月城
列伝 :通称大膳。別名:たら木狼之介勝盛。益田藤兼家臣。祖父・信定は安芸武田家臣で、毛利元就に討ち取られていた。山陰でも屈指の豪将であったが、月山富田城攻撃の際、山中鹿之助幸盛と一騎打ちの末、討ち取られた。もう少し長く生きていれば、山陰でも有数の名将となっていたのかもしれない。

澁木成尚(しぶき なりひさ)


生没年:?〜1648
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。異国人で、朝鮮征討の際、児玉景唯に連れられ毛利家に仕官した。

嶋 吉利(しま よしとし)


生没年:?〜?
官位 :越前守
居城 :備中国児島本太城
列伝 :村上武吉の重臣として、瀬戸内で大活躍した。
能島村上家が大友に通じた際にはその取次を行っている。

清水景治(しみず かげはる)


生没年:?〜?
官位 :美作守
居城 :不明
列伝 :清水宗治の次男。小早川隆景の下へ人質となっていた。成人して後、豊臣秀吉から直参の家臣となるよう勧誘されるも、これを断る。隆景死後は秀秋に仕え、関ヶ原本戦にも参戦した。小早川家改易後は毛利家に戻る。

清水宗知(しみず むねとも)


生没年:?〜1582
官位 :左近将監・備後守
居城 :不明
列伝 :清水宗則の嫡男。月清入道。九州侵攻で活躍した。後に弟・宗治と共に備中高松城にこもり、羽柴軍を相手に奮闘するも、水攻めに力尽き、宗治と共に自害した。
辞世は「世の中の惜しまるるとき散りてこそ 花も花なれ 色も有りけれ」

清水宗則(しみず むねのり)


生没年:?〜?
官位 :備後守
居城 :備中国賀陽郡清水城
列伝 備中国人。宗綱の子。備中国人であり、吉備津神社社務代を勤めていた石川家に属し、明禅寺合戦などに出陣している。
また三村・細川・中島・上野らと共に毛利軍の出雲侵攻などにも従軍している。

清水宗治(しみず むねはる)


生没年:1537〜1582
官位 :不明
居城 :備中国都窪郡幸山城→備中国賀陽郡高松城(岡山市高松)
列伝 :備中国人。清水宗則の子。通称・長左衛門尉。兄・宗知(月清)に代わって家督を継ぐ。高松城主・石川久孝の娘を娶り、久孝の死後、高松城を受け継いだ。隆景の指揮下、播磨上月城攻略戦などに力を尽くした。1582年、羽柴秀吉勢に高松城を包囲される(この時の和平交渉の際・毛利方は五ヶ国割譲してでも、宗治の切腹は止めて欲しいと言った)。本能寺の変の後、見事な最期を遂げたのは言うまでもない。戦国の忠臣の一人であった。

清水宗之(しみず むねゆき)


生没年:?〜1600
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :清水宗治の嫡子。慶長五年、勢州安濃津城合戦にて討死した。

清水行宗(しみず ゆきむね)


生没年:?〜1597
官位 :右衛門尉
居城 :備中国都窪郡幸山城→備中国賀陽郡高松城(岡山市高松)
列伝 :清水月清の子。播磨の戦で感状を賜る。
天正一〇(1582)年の備中高松城攻防戦では父と共に高松城に籠城し、父は自刃したが、行宗は生還した。
後に朝鮮出兵の折に軍功を挙げた。

下瀬頼金(しもせ よりかね)


生没年:?〜?
官位 :左京助
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。吉見正頼が挙兵する際、毛利元就のもとに使者として出向いた。

下瀬頼郷(しもせ よりさと)


生没年:1496〜1585
官位 :加賀守
居城 :石見国鹿足郡下瀬山城(現・島根県鹿足郡日原町)
列伝 :吉見家臣。別名・脇本頼郷。吉見三代に仕えた。若い頃から策士と恐れられ、下瀬城と津和野城を本格的に繋げたと言われる。嫡子・頼直と共に益田氏の軍勢を各個撃破、益田氏・参謀、益田兼任の降伏命令を無視し益田藤兼の偽文書を見抜き主君・吉見正頼を降伏させなかったと言われる。益田藤兼は第二次津和野城の合戦(1555年)で退却する時、「頼郷の領地を通れば生きては帰れぬ」と悟り、わざわざ津和野〜萩へ抜けて帰ったなど様々な逸話がある。

下瀬頼定(しもせ よりさだ)


生没年:1530〜1614
官位 :加賀守
居城 :石見国鹿足郡下瀬山城(現・島根県鹿足郡日原町)
列伝 :吉見家家臣。下瀬頼郷の子。初名は脇本弥五郎。吉見広頼の参謀として仕えた。吉見正頼の挙兵の際、陶勢に攻められた嘉年城の援軍に向かい奮戦した。

下瀬頼直(しもせ よりなお)


生没年:1567〜1643
官位 :不明
居城 :石見国鹿足郡下瀬山城(現・島根県鹿足郡日原町)
列伝 :吉見家家臣。下瀬頼定の子。吉見元頼・広長の参謀として、活躍するも、吉見家改易により、浪人となる。後に徳山毛利家に三〇〇石で仕える。
彼が記した「吉見朝鮮陣日記」は朝鮮出兵の状況を知る上で、大変貴重な資料で、明治二十七年の日清戦争の際にも大いに利用されたという。

庄原元泰(しょうばら もとやす)


生没年:?〜?
官位 :兵部丞
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。天正八(1580)年、緊迫する美作戦線の梃入れとして、垪和城の竹内久盛の援軍の検使官として庄・多治部・石蟹と言った備中勢を率いた。

白井景俊(しらい かげとし)


生没年:1537〜?
官位 :兵庫頭
居城 :不明
列伝 :安芸白井家の一族か。久留米小早川家の筆頭家老。秀包が最初の養子先・備後大田家に入った際から付き従い、四国攻めなどで戦功を挙げた。関ヶ原の際には、桂広繁らと共に、五〇〇の兵で黒田・鍋島連合軍と戦った。

白井景胤(しらい かげたね)


生没年:1580〜1594
官位 :兵庫頭
居城 :不明
列伝 :晴胤の子。通称・弥四郎。
文禄三年三月二一日、朝鮮にて討死した。

白井賢胤(しらい かたたね)


生没年:?〜?
官位 :越中守
居城 :安芸国仁保島城
列伝 :安芸国仁保島の領主。大内水軍の一角を担った。陶晴賢の謀反に際しては晴賢に従い、後に吉見攻め・厳島合戦に参戦。晴賢自刃後も大内家に仕え、後に小早川隆景に降伏。その家臣となった。

白井包俊(しらい かねとし)


生没年:?〜?
官位 :土佐守
居城 :不明
列伝 :久留米小早川家臣。旧名・忠助。伊予高尾山城攻撃で初陣を飾る。小早川秀包に従い、朝鮮で武功をあげた。関ヶ原の際には大津城攻撃に参加。重傷を負った。

白井治嘉(しらい はるよし)


生没年:?〜1582
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :清水家臣。宗治に仕えていた。備中高松城落城の際、宗治と共に自刃した。

白井晴胤(しらい はるたね)


生没年:1546〜1587
官位 :縫殿允
居城 :不明
列伝 :賢胤の子。大内家滅亡後、小早川水軍の一員となり重用された。九州征討の際、日向鷹城(高城?)で討死した。

白松満明(しらまつ みつあき)


生没年:?〜1597
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :冷泉家臣。通称・善右衛門。白松家は吉安・伊賀崎・豊嶋家と並び、冷泉家の家老を勤めた。
朝鮮征討の際、冷泉元満が蔚山で討死すると、その死骸を取り戻し、日本に送る。
その翌日、吉安満定・伊賀崎満重と共に加藤清正勢に加勢し奮戦、枕を並べて討死し、元満に殉じた。

神西信通(じんざい のぶみち)


生没年:?〜1584
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。出雲神西氏の一族か。通称惣左衛門。
弘治二(1556)年、大内義長から長門国豊浦郡・厚狭郡・阿武郡で計七十五石を知行されている。

宍道隆慶(しんじ たかよし)


生没年:?〜?
官位 :大炊助・遠江守
居城 :出雲国意宇郡坂口城→周防国吉敷郡姫山城→出雲国意宇郡坂口城
列伝 :正隆とも言う。元々尼子家臣であったが、大内義隆の出雲侵攻の際寝返り、その結果、出雲から追放されてしまう。毛利軍周防侵攻の時、山口防衛の要である周防姫山城を守っていたが、毛利家に降伏。尼子家滅亡後は、旧領に復帰した。

神保景正(じんぼう かげまさ)


生没年:1560〜1642
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。隆景の元で物頭を勤め、朝鮮各地で武功を上げた。
後に隆景が隠居するとこれに従って三原に移り、隆景死後は浪人となった。

神保隆常(じんぼう たかつね)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :神保興胤の子。宗内と称す。
天文二十三年、折敷畑合戦にて、敵将・柿並隆幸を討ち取った。

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