冷泉隆豊(れいぜい たかとよ)


生没年:1513〜1551
官位 :左衛門尉
居城 :安芸国佐東郡銀山城
列伝 :旧名:隆祐。大内家家臣として水軍を率いた。陶晴賢の謀反の際には、大寧寺まで付き添い、義隆の介錯をし、自らも後を追って自刃した。大内家切っての忠臣だった。
辞世は『みよやたつ雲も煙も中空に さそひし風のすえも残らず』

冷泉元豊(れいぜい もととよ)


生没年:1537〜1562
官位 :不明
居城 :豊前国規矩郡門司城
列伝 :冷泉隆豊の嫡子。父・冷泉隆豊が大寧寺で大内義隆に殉じると、家臣・吉安豊英らに守られ安芸国人・平賀弘保の元に逃れる。
後に坂元祐と共に毛利家に召しだされ、大内家滅亡後、一万石の所領を得て、門司城の城代を命じられるも、1562年、大友勢の攻撃を受け、討ち死にした。

冷泉元満(れいぜい もとみつ)


生没年:1539〜1597
官位 :民部少輔
居城 :淡路国岩屋城→出雲国仁多郡亀嶽城
列伝 :冷泉隆豊の次男。父・冷泉隆豊が大寧寺で大内義隆に殉じると、家臣・吉安豊英らに守られ安芸国人・平賀弘保の元に逃れる。
後に坂元祐と共に毛利家に召しだされ、大内家滅亡後は、毛利家配下として門司城代を任され、また下口水軍(周防・長門の水軍)の指揮官として、雲伯海上封鎖戦・淡路・讃岐を巡る海戦などにおいて活躍した。
毛利家が石山本願寺に兵糧を運ぶようになると、制海権確保の為、淡路岩屋城の城番を勤めた。
防長両国に所領を得ていたが、後に出雲仁多郡三五八五石に移され(同時期に在地性国人の移封が相次いでいる事からこの一環であると思われる)三沢家の居城だった亀嶽城を本拠とする。
後に慶長二年十二月二十七日、朝鮮蔚山において討ち死にした。この時、家臣の吉安満定・伊賀崎満重・白松善左衛門は元満の遺骸を奪還し日本に送ると、その翌日に討死し、元満に殉じた。

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