新見景行(にいみ かげゆき)


生没年:?〜1610
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。粟屋元種の次男。新見景実の養子となり小早川隆景に仕えた。

新屋実満(にいや さねみつ)


生没年:?〜?
官位 :越後守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。旧名隆澄。永禄十二年、大内再興軍を率いて山口に侵攻した大内輝弘が自害した際、検視となり輝弘の首と指料の刀を受け取り帰る所を輝弘の家臣に襲われる。
この時、実満は敵を切り払い切り抜け、無事に帰陣した。(これについては諸説あり、いずれが本当なのかは不明である)
後に石山本願寺から援軍の依頼を受けた時、これに参陣し、摂津難波浦において功名を挙げ、本願寺光佐から判物ならびに弥陀の絵像を賜った。

新屋元村(にいや もとむら)


生没年:?〜?
官位 :肥後守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。実満の子。朝鮮出兵の際、安国寺勢に属し、蔚山城攻防戦等で功を挙げた。
寛永年間、毛利秀就の命により姓を新山に改める。萩藩では五〇〇石を与えられた。

蜷川秋秀(にながわ あきひで)


生没年:?〜?
官位 :宮内少輔
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。毛利元秋に仕え、月山富田城に入城。
元秋が死去すると、赤川就武と共に元秋の庶子・千満丸に仕えるも、千満丸は三歳で夭折。
その後は毛利宗家に戻り、九州征討の際は赤間関の警護を任され、その功にて秀吉から波平の刀を賜った。

二宮右忠(にのみや すけただ)


生没年:?〜?
官位 :隠岐守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。毛利元就が陶と手切を決意すると、伊藤元種と共に三本松城主・吉見正頼の援軍として同地に赴いた。

二宮経方(にのみや つねかた)


生没年:?〜1550
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉川家臣。通称・十郎左衛門。吉川興経が安芸布川の地に追放された際、これに付き従う。
のちに、毛利元就の指示により誅殺に向かった熊谷・天野勢に興経の居館を襲撃された際、興経に殉死する。

二宮経政(にのみや つねまさ)


生没年:?〜1522
官位 :左衛門尉
居城 :不明
列伝 :吉川家臣。光信の子。大永二年の備後赤屋合戦にて父・光信と共に討死した。

二宮俊実(にのみや としざね)


生没年:1522〜1603
官位 :木工助
居城 :不明
列伝 :吉川家臣。厳島合戦の際、三浦房清を、石見では本城常光を討ち取るなど、吉川家随一の戦功を誇る猛将だった。『二宮覚書(にのみやおぼえがき)』の作者。

二宮就辰(にのみや なりたつ)


生没年:1546〜1607
官位 :信濃守
居城 :不明
列伝 :毛利元就の落胤(要は隠し子。本当は元就四男となる)。家臣の二宮春久の息子として育てられた。就辰の素性が分かったのは、元就の死後、側室だった中の丸が輝元に打ち明けたことによる。経理に明るく、後に輝元の側近として、広島城築城などに活躍した。

二宮春貞(にのみや はるさだ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉川家臣。春久の子。吉川元春に仕えた。

二宮春久(にのみや はるひさ)


生没年:1510〜1593?
官位 :土佐守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。経政の子。幼少時、安芸中郡井原の地で成長し、長じて元就に仕える。吉田郡山城攻防戦で武功を挙げた。
彼の子・就辰は実は毛利元就の落胤である。

二宮光信(にのみや みつのぶ)


生没年:?〜1522
官位 :筑後守・内蔵助・左衛門佐
居城 :不明
列伝 :吉川家臣。経春の子。大永二年、備後赤屋合戦で討死した。

仁保隆慰(にほ たかやす)


生没年:1523〜?
官位 :右衛門大夫
居城 :豊前国規矩郡門司城
列伝 :大内家臣。大内家において、義隆の元で奉行人を勤める。陶晴賢の謀反の時には、陶派として行動している。このとき、冷泉隆豊らが連署した書状の中に名が載ることになった(無論、弾劾状である)。
大内家滅亡の際毛利家に降り、一時期奉行人として活躍。後に門司城主となり、最終的には、天正十四(1584)年頃まで門司城代、規矩郡代を勤めた。

仁保就定(にほ なりさだ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :豊前国規矩郡門司城
列伝 :大内家家臣。大内家滅亡後、毛利元就により門司城代に任命された。が、豊前平定を目論んだ大友軍に敗れ去った。

仁保広慰(にほ ひろやす)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :仁保元豊の嫡子。天正年間、人質として預けられる。後に小早川秀秋に仕えるが、小早川家改易後は浪人となり石見に移った。

仁保元豊(にほ もととよ)


生没年:?〜?
官位 :右衛門大夫
居城 :豊前国規矩郡門司城
列伝 :仁保隆慰の嫡子。天正元(1572)年、父・隆慰より家督を継承し、門司城主となった。天正十三(1585)年7月11日、輝元から当時下関駐屯中の神田元忠(後の三浦元忠)と協力して、関門海峡の警戒を厳重にするよう申し付けられた。これは当時、毛利家と島津家の間で外交交渉があり、下手に島津を刺激にしないための輝元の対上方・下口両面作戦の一環である。


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