内藤興盛(ないとう おきもり)


生没年:1495〜1554
官位 :弾正忠・下野守
居城 :長門国厚狭郡荒滝山城
列伝 :代々大内家宿老として長門守護代を勤める。文人としての評価も高い。陶晴賢の謀反の際には、消極的な立場で参戦するも、その後、孫の隆世が陶派についたため、内藤家は真っ二つに割れてしまった。

内藤隆春(ないとう たかはる)


生没年:1528〜1600
官位 :不明
居城 :長門国厚狭郡荒滝山城
列伝 :内藤興盛の九男。旧名隆通。厳島合戦後、甥の内藤隆世から家督を奪い取る形で内藤家当主に納まる。大内義隆の遺児、問田亀鶴の乱では率先して討伐に向かう。しかし、元就死後、讒言により、輝元からの信頼を失う。晩年は大阪屋敷にあって、上方の情報収集に当たった。実子無く、宍戸家から養子を向かい入れる(この養子が、後に大阪城で奮戦した佐野道可(内藤元盛)である)。

内藤隆安(ないとう たかやす)


生没年:?〜?
官位 :帯刀
居城 :不明
列伝 :大内家臣。大永三年、玖珂郡山代五ヶ郷の検地の竿頭を務めた。

内藤隆世(ないとう たかよ)


生没年:?〜1557
官位 :不明
居城 :長門国厚狭郡荒滝山城
列伝 :内藤隆時の嫡男。大内義長の側近として活躍する。後に毛利軍の侵攻を受け、義長と共に長門且山城に籠るも、あえなく落城。元就の策略により、腹を切った。

内藤就藤(ないとう なりふじ)


生没年:?〜?
官位 :越後守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。大内家滅亡後、元就により山口奉行・市川経好の指揮下に入り、元就から、九州方面の動静を監視する旨の書状を受け取った。
後に、大内輝弘が山口に侵攻した際、経好の妻の元、粟屋元種・信常太郎兵衛らと共に城を守りぬいた。

内藤広泰(ないとう ひろやす)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :内藤元泰の子。別名・元廉。慶長二(1597)年、元泰から家督を譲られ、奉行人を務めた。

内藤元実(ないとう もとざね)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。通称・弥左衛門。天正十三(1585)年、豊臣軍九州征伐の際、渡船奉行を務めた。

内藤元栄(ないとう もとひで)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家家臣。天正一六(1588)〜天正二〇(1592)年に行われた惣国検地において最高責任者に任命された。

内藤元盛(ないとう もともり)


生没年:?〜1615
官位 :修理大夫
居城 :長門国厚狭郡荒滝山城
列伝 :宍戸元秀の次男。内藤隆春の養子となり、長門で一万石を領した。大阪の陣の際、主・輝元の密命を受け、佐野道可と名乗り、金五〇〇枚と共に、大阪城に入城した。豊臣家滅亡後、山城国桂里大藪村の鷲巣寺で切腹した。

内藤元泰(ないとう もとやす)


生没年:?〜1608
官位 :中務少輔・下総守
居城 :不明
列伝 :毛利家譜代家臣。毛利輝元を烏帽子親として元服する。尼子義久が降伏すると、義久・倫久・秀久三兄弟の警備を命じられた。

永井一虎(ながい かずとら)


生没年:?〜?
官位 :越前守
居城 :備中国下道郡市場古城
列伝 :毛利家臣。天正二(1574)年、備中兵乱の際、鶴首城攻撃で城方の法行之勝を破る武功を挙げ、安芸国から備中に移され、市場古城主となった。

長井貞重(ながい さだしげ)


生没年:?〜1551
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。陶晴賢の謀反の際には義隆に与し討死にした。

長井春保(ながい はるやす)


生没年:?〜?
官位 :左京進
居城 :不明
列伝 :備後国人。志川瀧山城攻撃に従軍した。

長井元親(ながいもとちか)


生没年:?〜?
官位 :右衛門大夫
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。天正一六年・周防国の検地で打渡奉行を務める。

長崎元康(ながさき もとやす)


生没年:?〜1543
官位 :左近将監
居城 :不明
列伝 :大内家臣。屋代島海賊衆の一人。元親とも。
天文十二年、大内義隆が出雲から山口へ退却する際討死した。

中島元貞(なかじま もとさだ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :出雲国八束郡羽倉山城
列伝 :毛利家臣。通称・善右衛門尉。
第一次尼子再興軍撃破後、羽倉山城督となった。

中島元行(なかじま もとゆき)


生没年:1552〜1614
官位 :大炊介
居城 :備前国御野郡富山城
列伝 :備中国人の一人。元々は三村家臣だったが、三村家滅亡により、毛利家臣となる。備中高松城水攻めの際に宗治と共に城にこもるも生還を果たす。後に『備中兵乱記』を記す。

中津江重美(なかつえ しげよし)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣だったが、吉見家滅亡後一時禄を離れた。
後に毛利秀就に召抱えられ、中山姓を称した。

長野鎮展(ながの しげのぶ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :豊前国松島岳城
列伝 :豊前国人。通称三郎左衛門。天正十四(1586)年、豊臣軍の島津征伐の時に豊臣勢に降伏し、所領安堵。
同十六(1588)年、肥後国内で五〇〇〇石の所領に封される。熊本に居住し、加藤清正の与力を命じられた。

長野種信(ながの たねのぶ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :豊前国馬ヶ岳城
列伝 :豊前国人。秋月文種の子。父が大友に反旗を翻し、古処山城を落とされると家臣により山口へ逃れる。
後に豊前長野氏へ入嗣した。

長野頼勝(ながの よりかつ)


生没年:?〜?
官位 :右近大夫
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。天正十一年長門阿武郡の上徳佐八幡宮を再建した。

長野頼幸(ながの よりゆき)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。通称・惣右衛門。上領頼規の娘を娶った。

永久元祐(ながひさ もとすけ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣→吉見家臣。近藤清友の次男で、永久家の養子に入る。
隆元の娘が吉見広頼の元へ嫁ぐ時、これに従い、吉見家に仕えた。

長嶺政信(ながみね まさのぶ)


生没年:?〜?
官位 :河内守
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。吉見家改易後、松岡頼利・後藤行友らと共に萩藩に召抱えられた。

中村頼宗(なかむら よりむね)


生没年:?〜?
官位 :大炊介
居城 :美作国久米郡祝山城・岩屋城・苫西郡葛下城
列伝 :美作国人。毛利家に属し、宇喜多家が毛利から離反すると浜口家職守る祝山城を攻略した。
楢崎元兼・草苅重継・福田勝雅・福田盛雅・桜井直豊らと共に美作に侵攻してきた羽柴・宇喜多勢に対抗する。
後に山崎合戦後、毛利家の国分により美作が宇喜多領になるとこれに抵抗し、攻めてきた宇喜多勢を撃破した。が、毛利家の説得により安芸に退去する。

中山資頼(なかやま すけより)


生没年:?〜?
官位 :左馬允
居城 :不明
列伝 :大内家臣。永正一七年、山口高嶺大神宮の社壇建立の作事奉行を勤める。

中山隆宗(なかやま たかむね)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。御郷越中守の後任として、長門厚狭郡司に任じられる。

長屋元定(ながや もとさだ)


生没年:?〜?
官位 :下野守
居城 :不明
列伝 :毛利家庶流。弘治二(1556)年、周防若山城代となるが、翌年大内軍の攻撃を受け敗北、若山城を奪われた。

梨羽景連(なしわ かげつら)


生没年:?〜?
官位 :中務丞
居城 :備中国賀夜郡松島城
列伝 :小早川家臣。天正一〇年、羽柴秀吉が備中高松城に侵攻した際、備中松島城将を勤めた。

梨羽宣平(なしわ のぶひら)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。椋梨弘平と共に小早川家臣の筆頭重臣だった。

楢崎豊景(ならざき とよかげ)


生没年:?〜?
官位 :三河守
居城 :備後国芦田郡楢崎城
列伝 :備後国人。毛利家に属し、石見温湯城攻略や永禄十二(1569)年、藤井皓玄が備後神辺城を占拠した際、村上吉充・三吉隆亮と共に奪回するなど、多くの武功を挙げた。

楢崎元兼(ならざき もとかね)


生没年:?〜?
官位 :弾正忠
居城 :美作国真島郡月田城
列伝 :美作国人。三村家と婚姻を結び三村家に属す。
後に三村家が毛利から離反した際、三村親成・赤木忠房らと共にこれに従わず、宇喜多勢を城に迎え入れた。
天正一〇年、備中高松城攻防戦では、羽柴軍に奪われた日幡城奪回に成功する。

成羽親宣(なりわ ちかのぶ)


生没年:?〜?
官位 :紀伊守
居城 :備中国川上郡鶴首城
列伝 :三村親成の子。本姓は三村。通称・孫太郎。三村家が毛利家から離反しようとしていた際、父とともに反対していたが、離反に伴い、小早川隆景に三村家離反の報を伝え、備中侵攻の案内役となる。
天正一〇(1582)年、羽柴軍の備中侵攻の際、冠山城に援軍として入城するが、落城に伴い、高松城に入城し、奮戦した。
三村家滅亡後、在地名の成羽を取り、成羽親宣と名乗る。

南条宗勝(なんじょう むねかつ)


生没年:1496〜1575
官位 :豊後守
居城 :伯耆国河村郡羽衣石城
列伝:宗元とも言う。尼子経久の伯耆侵攻により羽衣石城を追われ、因幡の山名氏の元に身を寄せる。その後、山名氏の援助を受け羽衣石城を攻撃するも失敗。その後、毛利軍が出雲侵攻すると、元就を頼り、東伯耆三郡(河村・久米・八橋)を安堵され、東伯耆の重鎮として活躍した。

難波宗忠(なんば むねただ))


生没年:?〜1582
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :清水宗則の子。通称伝兵衛。天正一〇(1582)年の備中高松城攻防戦の際、兄月清入道・長左衛門宗治と共に篭城するも、降伏開城の際、兄達と共に湖上にて自刃した。

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