椋梨景家(むくなし かげいえ)


生没年:?〜1586
官位 :越前守
居城 :不明
列伝 :椋梨一門。小早川秀包が大田家に養子に入った際に、秀包に付けられた家臣の一人。1586年、豊臣秀吉の九州征伐の際、豊前香春嶽城の高橋元種を攻撃した際、鉄砲により討ち取られた。

椋梨景良(むくなし かげよし)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :椋梨弘平の子。小早川隆景から一字拝領し、景良と名乗る。
隆景に仕えていたが、隆景死後は毛利家臣に編入される。

椋梨包祐(むくなし かねすけ)


生没年:?〜?
官位 :主殿・越前守
居城 :不明
列伝 :久留米小早川家臣。椋梨景家の子。白井包俊らと共に伊予高尾山城攻撃で初陣を飾る。
天正十四年、豊前宇留津城攻撃の際、父・景家を失い、家督を継ぐ。後に朝鮮出兵で戦功を挙げた。

椋梨弘平(むくなし ひろひら)


生没年:?〜?
官位 :治部大輔
居城 :不明
列伝 :沼田小早川家臣。小早川隆景の下で筆頭家老に就任した。
永禄四年、元就・隆元親子が隆景の居城・雄高山城を訪れた際、屋敷を宿所として提供した。
永禄一〇年、毛利軍の筑紫侵攻の先遣隊として、豊前三岳城付近の在地有力武士への説得に当たった。

宗像氏続(むなかた うじつぐ)


生没年:?〜1551
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :筑前国人。天文二〇年、実子氏男(氏雄とも、黒川隆像の事)が大内義隆に殉じ、陶晴賢の横槍により宗像鍋寿丸(氏貞)が宗像家家督並びに宗像神社大宮司職を継承するとこれに反対する家臣に擁立され対抗するも、敗北。英彦山で討ち取られた。

宗像氏貞(むなかた うじさだ)


生没年:1544〜1586
官位 :不明
居城 :筑前国鳶ヶ岳城
列伝 :筑前国宗像神社大宮司。宗像正氏の庶子。陶晴賢の謀反によって起こった宗像家の家督相続争いで、晴賢の支援を受けて家督を継ぐ。その後、毛利家に属し、反大友派として活躍するも、嫡子がいなかったため、秀吉の九州侵攻により、所領を奪われた。

村上景親(むらかみ かげちか)


生没年:1557〜1610
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :村上武吉の次男。通称・三郎兵衛尉。父に従い、瀬戸内で活躍する。後に隆景の筑前国替えに同行し、四五〇〇石を与えられた。隆景隠居後は秀秋に、更に隆景の死に伴い、輝元の家臣となる。
文禄の役では兄・元吉と共に吉川広家隊に属し、慶尚道高霊郡茂渓城に在番。漢城との連絡路である洛東江の渡し口を守った。
後に、毛利家御船手組の組頭となり、一六五五石の知行を得た。

村上景広(むらかみ かげひろ)


生没年:?〜?
官位 :弾正忠
居城 :備中国小田郡笠岡城
列伝 :能島村上家の一族で、村上隆重の嫡子。旧名・成豊。通称・八郎左衛門尉。
木津川口海戦の時には、負傷しながらも、毛利軍勝利のきっかけを作った。
天正九年、織田方に寝返った宇喜多領の児島―岡山の海上交通路を切断。宇喜多方の八浜二子山城を奪った。
隆景死後は、毛利宗家に戻り、関ヶ原の際には浦景継と共に、水軍を率い、かつて木津川口で敗北を喫した志摩鳥羽城主・九鬼嘉隆と共に東軍の水軍を粉砕。尾張知多半島の西岸の六浦を制圧した。
関ヶ原後、細川忠興の招きに応じ出奔、細川家臣として一万石を賜った。

村上景康(むらかみ かげやす)


生没年:?〜1587
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :村上亮康の子。兄・吉充の養子となる。天正一五年、九州征討に従軍するも、日向延岡で病死した。

村上亮康(むらかみ すけやす)


生没年:1534〜1608
官位 :蔵人・左衛門大夫
居城 :備後国沼隈郡大可島城
列伝 :村上吉充の弟。父・尚吉より鞆の津代官を命じられ、鞆浦の警固に当たった。
永禄十二年、杉原家臣・藤井皓玄が備後神辺城を占拠すると、三吉隆亮と共に城代の所原肥後守を助け、神辺城を奪回した。
後に毛利家を頼ってきた足利義昭の警護を勤め、毛氈・鞍覆・白傘袋の使用を認められた。
第一次木津川口海戦では毛利軍の一翼を担い恩賞を受ける。
天正一〇(1582)年、村上通昌(来島通総)が織田方に寝返ると、吉充・隆吉と共に毛利輝元への忠誠を誓い、その恩賞として、一〇〇貫の所領を与えられた。

村上隆重(むらかみ たかしげ)


生没年:?〜?
官位 :掃部頭・左近大夫
居城 :備中国小田郡笠岡城
列伝 :能島村上一門。旧名・宗勝。笠岡掃部とも称される。隆勝の三男。
能島村上家の家督騒動では武吉を担ぎ上げ、義益派を打ち破った。
備中神島・備後田島を領していたが、天文九(1540)年、備中国人・陶山民部少輔を救援し、備中国人・小田氏と萌黄原で戦うも敗北する。これ以降隆重は笠岡へ進出し、村上水軍の根拠地としている。

村上高吉(むらかみ たかよし)


生没年:1533〜1597
官位 :不明
居城 :備後国百島茶臼山城
列伝 :因島村上水軍の海将。百島村上家二代目吉高の子。
永正年間、本家と抗争になり、茶臼山城を落とされ、島外に逃れ一命を取り留めた。
後、叔父の吉卿に呼び戻され、因島水軍の海将として活躍し、厳島合戦・木津河口海戦において奮戦した。

村上隆吉(むらかみ たかよし)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :因島村上家臣。吉充の弟。天正一〇(1582)年、村上通昌(来島通総)が織田方に寝返ると、兄・吉充・亮康と共に毛利輝元への忠誠を誓い、その恩賞として、一〇〇貫の所領を与えられた。

村上武満(むらかみ たけみつ)


生没年:?〜?
官位 :刑部少輔
居城 :周防国熊毛郡上関城
列伝 :村上水軍の海将。能島村上水軍出身。大内家滅亡後、上関に移り、同地を支配した。
後に木津川口海戦に参戦し、武功を上げた。

村上武吉(むらかみ たけよし)


生没年:1533〜1604
官位 :掃部頭・大和守
居城 :伊予国能島城→安芸国竹原鎮海山城
列伝 :能島村上家棟梁。村上義忠の子。家督相続の際、嫡流で尼子派の宮内義益(吉益)と争う。元々村上水軍は河野家の配下であるが、この時代辺りには、大内家や大友家などとも手を組んだりなど、独自色が強いものとなる。
厳島合戦においては乃美宗勝の説得により毛利元就に味方。これより毛利家に属す。
弘治三年、門司城攻防戦においては来島村上水軍と共に大友水軍を破り、永禄五年、毛利隆元より太刀と馬を褒美として賜る。
が、永禄一一年と元亀二年の二回にわたって毛利家より離反するなど、独立心旺盛なところもあった。

また、彼は駄別銭の徴収システムを作り上げたり、海外貿易を行ったりと、経済面にも通じ、先進的なところもあった。
古来よりの海賊衆から、水軍としてのシステムを作り上げた事は賞賛に値する。
秀吉とは仲が悪く、能島から追い出され、さらに周防大島や筑前に移された。晩年は周防大島に隠棲した。

村上長喜(むらかみ ながよし)


生没年:1596〜1566
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。通称・安右衛門尉。吉見家臣だったが、吉見家改易後、秀就に召抱えられた。

村上就常(むらかみ なりつね)


生没年:?〜1569
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。通称・又右衛門。
永禄六年四月、意宇郡津田での夜戦で功を挙げる。後に永禄十二年十一月十九日、出雲多久和城攻防戦で討死した。

村上久成(むらかみ ひさなり)


生没年:?〜1579
官位 :左衛門尉
居城 :美作国久米北郡三宮城・池ノ内城
列伝 :美作国人。永禄年間に毛利家に服属した。通称・勘兵衛。
村上家は美作久米北郡に所領を持つ小領主である。天正七(1579)年、宇喜多直家の侵攻を受け、奮戦・抵抗する物の衆寡敵せず、落城。討死した。

村上通清(むらかみ みちきよ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :来島通康の次男。義清・吉清とも。黒田家→福島家→紀伊徳川家と仕官先を変えた。通清が福島家に仕えていた縁により、来島家は改易を免れたという説もある。

村上元吉(むらかみ もとよし)


生没年:1566〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :因島村上家臣。村上隆吉の子。通称喜兵衛。天正九(1581)年ごろから輝元に出仕する。
朝鮮侵攻の際、毛利秀元の指揮下に入り、村上景親と共に戦功を挙げた。

村上元吉(むらかみ もとよし)


生没年:?〜1600)
官位 :不明
居城 :伊予国能島城。
列伝 :村上武吉の嫡男。父と共に瀬戸内を駆け巡った。関ヶ原の際、河野通軌の配下として、伊予松前城を攻めるも、夜襲にあい、あえなく討ち死にした。

村上吉卿(むらかみ よしあき)


生没年:?〜?
官位 :越後守
居城 :不明
列伝 :百島村上水軍の海将。村上吉房の子。
永正年間、本家(因島村上家)と抗争になり茶臼山城を攻められる。この時兄・吉高を失うも、島内に残り抵抗を続け、和議を結ぶ事に成功。兄の子・高吉を呼び寄せ、百島村上家の再興を果たす。
以後、高吉の補佐を行い、各地の海戦で活躍した。

村上吉高(むらかみ よしたか)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :備後国沼隈郡百島茶臼山城
列伝 :因島村上家庶流。吉房の子。備後百島(現・尾道市百島)を領す。
永正年間、因島村上一門の村上範和と結び幸崎城を攻撃するも敗退、逆に因島村上家の攻撃を受け戦死した。

村上吉継(むらかみ よしつぐ)


生没年:?〜?
官位 :河内守
居城 :伊予国越智郡甘崎城・鳥坂城
列伝 :来島村上家臣。来島通康死後、その子通総の家老を勤めた。木津川口海戦には来島村上水軍の手勢を率いて参戦。天正一〇(1582)年、通総が羽柴秀吉の誘降に応じた際、村上吉郷と共に反対し、袂を分かった。

村上吉郷(むらかみ よしさと)


生没年:?〜?
官位 :越後守
居城 :不明
列伝 :来島村上家臣。来島通総の家老を勤める。天正一〇(1582)年、通総が羽柴秀吉の誘降に応じた際、村上吉継と共に反対し、袂を分かった。

村上吉亮(むらかみ よしすけ)


生没年:?〜1596
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :村上亮康の三男。通称・新左衛門。叔父・吉充の養子に入っていた長兄・景康が死去したため、吉亮が養子に入り、因島村上家7代目当主となる。

村上義益(むらかみ よします)


生没年:?〜?
官位 :宮内少輔
居城 :不明
列伝 :村上義雅の子。義雅死後、尼子家と手を組み、村上武吉と家督相続争いを演じるも敗北した。

村上吉充(むらかみ よしみつ)


生没年:1534〜1623
官位 :蔵人
居城 :備後国沼隈郡因島青影城
列伝 :因島村上家六代目棟梁。厳島合戦においては乃美宗勝の妹を妻にしたこともあってか、毛利元就に味方。その後、毛利家臣として奮戦し、小早川隆景の信頼を得る。九鬼嘉隆との大阪湾海戦においては、能島村上水軍と共に奮戦した。
天正一〇(1582)年、村上通昌(来島通総)が織田方に寝返ると、弟の亮康・隆吉と共に毛利輝元への忠誠を誓い、その恩賞として、五〇〇貫の所領を与えられた。関ヶ原後は長門矢玉に移されるも、後に因島へ帰り、当地で没した。

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