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毛利隆元(もうり たかもと)


生没年:1523〜1563
官位 :備中守・大膳太夫
居城 :安芸国高田郡吉田郡山城
列伝 :毛利元就の嫡男。幼名・少輔太郎。幼少から毛利家宿老・志道広良の薫陶を受け育つ。父・元就が大内家に従った際に、人質として山口に送られ、義隆の隆の字を拝領し、隆元と名乗る。1546年、家督を継承する。戦略などは相変わらず元就が仕切っていたようだが、内政面で多大な活躍を見せた。毛利家の繁栄の一因に、隆元の内政面での尽力があったと思われる。後に、尼子討伐戦の最中、九州から出雲に移動する途中立ち寄った備後南天山城にて死去。
元就・元春・隆景の影に隠れがちな隆元だが、人望厚く、統率力もある名将であった。個人的には、後の真田信幸と同質の武将であったと思う。

毛利秀就(もうり ひでなり)


生没年:1595〜1651
官位 :侍従・長門守・右近衛権少将
居城 :安芸国佐東郡広島城→長門国阿武郡指月城
列伝 :毛利輝元の嫡子。五歳の時上坂し、豊臣秀頼から一字拝領し、秀就と名乗る。関ヶ原戦後、輝元から家督を譲られ、初代萩藩主となる。

毛利秀元(もうり ひでもと)


生没年:1579〜1650
官位 :右京大夫・伊予守・甲斐守・参議
居城 :周防国吉敷郡長山(山口)城→長門国豊浦郡串崎城
列伝 :穂井田元清の次男。安芸侍従とも呼ばれる。豊臣秀秋の毛利家入嗣騒動が起こると、輝元の養子となった。のちに、輝元に嫡子・秀就が誕生したため、山口に移り、別家を立てた。関ヶ原では、輝元の名代として関ヶ原本戦に出陣するも、吉川広家の妨害により、傍観に徹した。戦後、長門長府に減封され、長府毛利家の祖となり、毛利宗家の執政として力を振るった。

毛利房継(もうり ふさつぐ)


生没年:?〜?
官位 :掃部允
居城 :不明
列伝 :陶家臣。陶家で奉行人ならびに徳地代官職を務める。
大内家滅亡後は毛利家に降り、上徳地を給された。

毛利房郷(もうり ふささと)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。山代衆の一人。厳島合戦前後に毛利家に降った。後に林姓を名乗る。

毛利房元(もうり ふさもと)


生没年:?〜?
官位 :右京進・備前守
居城 :不明
列伝 :大内家臣。山代衆の一人で周防国玖珂郡美川を領した。

毛利元尭(もうり もとたか)


生没年:?〜?
官位 :加賀守
居城 :不明
列伝 :安芸国人。通称・与三。後に奈古屋姓。安芸毛利家との関連は不明。
陶家の謀反後、陶家に属し、安芸桜尾城を守っていたが、久芳賢重・賢直と共に毛利家に降った。

毛利元綱(もうり もとつな)


生没年:?〜1524
官位 :不明
居城 :安芸国高田郡船山城
列伝 :毛利弘元の三男。相合(あいおう)に屋形を構えていた為、相合少輔三郎元綱と称す。
源氏の九郎判官義経にも劣らぬ軽業兵法の達者で、父から毛利家秘伝の※『闘戦経』を譲り受けるほどの優れた将であった。
が、幸松丸死後に起こった家督問題の際尼子家の調略に乗った為、坂・渡辺以下の諸将と共に元就に滅殺された。

※毛利家の始祖・大江音人の孫、惟時が著し、その子孫大江匡房が補正した、日本固有かつ、最高の兵法書。

毛利元就(もうり もとなり)


生没年:1499〜1571
官位 :治部少輔・右馬頭・陸奥守
居城 :安芸国高田郡猿掛城→安芸国高田郡吉田郡山城
列伝 :毛利弘元の次男。幼名松寿丸。成人後は少輔次郎。
安芸国人から一躍中国9ヶ国(安芸・備後・周防・長門・石見・出雲・隠岐・備中・伯耆)を領する程に勢力を広げた名将。
父弘元の死後・兄興元・兄の子幸松丸とたて続きに当主を失った毛利家の当主となる。
大内・尼子の両家に挟まれた苦境の中でも少しずつ勢力を広げ、高橋・安芸武田家等を滅ぼし、1541年に尼子軍3万が吉田郡山に攻め込んでくると大内軍と共にこれを撃破。吉川・小早川家に実子を養子として送り込み両家を乗っ取るなど、政略・知略・謀略を駆使し、安芸・備後一の大勢力となる。
陶晴賢の謀反後、吉見正頼の挙兵を好機とし立ち上がり、広島湾沿岸・備後北部を制圧した後、折敷畑の合戦において宮川房長率いる大内軍を撃破した。
1553年、尼子新宮党を謀略により壊滅させるなど尼子を無力化させた後、1555年、厳島において陶軍三万を撃破。
1557年、大内家を滅亡させ防長両国を制圧。この時、後に「三矢の訓」の元になった「三子教訓状」が出来る。
1565年、尼子家を滅亡させ出雲・隠岐・伯耆を制圧。
1567年、九州に侵攻し、大友軍と激しく激突。
1571年に死去。
一介の国人から中国地方の覇者にまで、家族を大事にする一面と、冷酷な謀略を駆使し大内・尼子の二大勢力を内側より粉砕、撃破すると言う二面性を持った元就。
元就もまた、織田信長と同じく、「魔王」と呼ばれる資格があるかもしれない。

裳懸景利(もかけ かげとし)


生没年:?〜?
官位 :采女正
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。毛利元就が初めて隆景居城、新高山城を訪問した際、父・盛聡と共に召しだされ、杯を受けた。

門司重盛(もじ しげもり)


生没年:?〜?
官位 :尾張守
居城 :豊前国規矩郡門司城
列伝 :毛利家臣。仁保氏らと共に豊前門司城将を務める。

門司輔親(もじ すけちか)


生没年:?〜?
官位 :民部丞
居城 :不明
列伝 :豊前国人。伊川門司頼房の子。天文二一年、大内義長より所領安堵された。

門司親胤(もじ ちかたね)


生没年:?〜1571
官位 :不明
居城 :豊前国規矩郡門司城
列伝 :豊前国人。大内家の仁保隆慰の配下として奮戦する。後に、大友→毛利と従属先を変えた。1571年、門司城内で死去。

門司親宗(もじ ちかむね)


生没年:?〜1571
官位 :不明
居城 :豊前国規矩郡門司城
列伝 :豊前国人。門司慰親の嫡子。
天正一〇(1582)年、備中福山城に在陣。

門司依親(もじ よりちか)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :豊前国規矩郡猿喰城
列伝 :伊川門司家当主。大内家において義隆期に奉行人を務めた。
※当時の門司家は、伊川・大積・片野・吉志・楠原・柳と言った分家に分かれていた。(更に、大積家の一部は安芸に移住し、南方姓を名乗っている)

守田忠能(もりた ただよし)


生没年:?〜?
官位 :越中守
居城 :不明
列伝 :杉家臣。永禄六(1563)年、豊前松山城に着任した杉重良(当時は松千代丸と名乗っていた)の軍監を勤める。

森光景近(もりみつ かげちか)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :備後国御調郡牛の皮城
列伝 :備後国人の一人。通称新四郎。天文十三(1544)年、牛の皮城を築城した。天文年間、尼子家の三吉攻めに加勢したとも伝えられる。

森脇春方(もりわき はるかた)


生没年:?〜?
官位 :飛騨守
居城 :不明
列伝 :吉川家家臣。「森脇覚書」の作者。
「森脇覚書」は、天文一八年の元就山口下向から元亀三年までの事を記述した修史である。

森脇春尚(もりわき はるひさ)


生没年:?〜?
官位 :内蔵大夫
居城 :不明
列伝 :吉川家臣。本城常光の次子、大蔵左衛門尉隆任の誅殺を行った。

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