三浦房清(みうら ふさきよ)


生没年:?〜1555
官位 :越中守
居城 :不明
列伝 :陶晴賢の股肱の家臣。厳島侵攻を強く押した人物。厳島合戦では、自害しようとする晴賢を逃走させようと奮戦するも、その途中で毛利家の二宮俊実に討ち取られた。後に神田惣四郎(三浦元忠)が行跡を受け継ぐ。

三浦元忠(みうら もとただ)


生没年:1555〜1596
官位 :兵庫頭
居城 :安芸国仁保城
列伝 :旧名:神田惣四郎。毛利輝元の寵愛を受け、周防の旧族・三浦家の行跡を継いだ。天正二(1574)年、備前虎倉城攻撃に参加するも、大敗した。後に輝元側近として権勢を振るう。

三上元安(みかみ もとやす)


生没年:?〜1614
官位 :豊後守・信濃守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。旧姓・井上。通称・新三郎。井上党誅殺を逃れる。
天文二一年七月二八日、備後志川瀧山城攻撃の功により感状を給される。
天文二十三年、安芸吉和一揆の鎮圧や、明石口合戦で功を挙げる。後に防長経略の恩賞として、弘治三年九月一九日、岩国文銭八貫目を与えられた。
天正六年、石山本願寺への援軍として本願寺に赴き、兵糧輸送等に従事する。
文禄四年、備後鞆浦代官を勤めた。

右田重政(みぎた しげまさ)


生没年:?〜?
官位 :左馬助・但馬守
居城 :周防国佐波郡右田ヶ嶽城
列伝 :旧名:隆量。毛利軍侵攻の時、右田ヶ嶽城を守っていたが、力の差を感じ、降伏した。後に右田家は元就の七男・天野元政に吸収されることになる。

右田隆次(みぎた たかつぐ)


生没年:?〜1551
官位 :右京亮
居城 :不明
列伝 :大内義隆の近習を務める。姓からして、右田重政の一門だと思われる。晴賢謀反の際には大寧寺まで付き従い、黒川隆像・天野隆良らと共に討ち死にした。
辞世は『末の露本の雫に知るやいかに つひに遅れぬ世の習ひとは』

御郷康政(みごう やすまさ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :周防国佐波郡右田嶽城
列伝 :右田重政の子。通称・勘兵衛尉。旧名・隆俊。毛利元政(後の天野元政)が右田家の養子に入ったため、姓を右田から御郷に改めた。三田尻御舟手組(江戸期の毛利水軍)の指揮官の一人。
※萩藩閥閲録によると、実はこの康政、大内義隆の実子であり、里子に出されたとも。大内義教が旧名であるともされている。

三沢為清(みさわ ためきよ)


生没年:1536〜1588
官位 :下野守
居城 :出雲国仁多郡三沢城
列伝 :出雲国人。三沢為幸の子。尼子家に属していたが、尼子晴久の吉田郡山城攻略戦失敗後、山内・本城・宮・宍道ら国人衆と共に大内家に属すも、大内氏の出雲侵攻の際に再度尼子軍に寝返った。
後に毛利元就が出雲に侵攻した時、赤穴・三刀屋らと共に毛利家に属し、本城常光誅殺事件で出雲国人の多くが離反した時も毛利家に従った。天正二(1574)年、家督を子の為虎に譲った。

三沢為虎(みさわ ためとら)


生没年:?〜?
官位 :摂津守
居城 :出雲国仁多郡三沢城
列伝 :三沢為清の子。輝元により、出雲仁多から、長門厚狭郡に移封される。北条家討伐戦では、吉見広頼・益田元祥・山内広通らと共に、伊豆下田城を攻略した。毛利家減封後、長府毛利家の家老に就任する。

水落直綱(みずおち なおつな)


生没年:?〜?
官位 :肥後守・備後守
居城 :不明
列伝 :熊谷家臣。堅直の子。永正一四年、安芸有田中井出合戦において、当主・熊谷元直と共に討死した。

三須隆経(みす たかつね)


生没年:?〜?
官位 :兵部
居城 :美作国医王山城
列伝 :熊谷信直の四男。三須房清の養子となる。天正八(1580)年、美作医王山(祝山)城将を勤め、宇喜多軍を撃破した。

三須房清(みす ふさきよ)


生没年:?〜?
官位 :筑前守
居城 :不明
列伝 :熊谷家臣。熊谷信直の妹を娶る。後に厳島合戦に参戦した。

三谷光重(みたに みつしげ)


生没年:?〜?
官位 :左近大夫
居城 :不明
列伝 :杉原匡信の子。毛利軍が伯耆に侵攻した際、兄・理興の名代として出陣した。

光井兼種(みつい かねたね)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :安芸国佐伯郡草津城
列伝 :大内家臣。永正三年より安芸草津城将となる。
大内水軍の一人として、広島湾の制海権確保や大三島攻撃等で戦功があった。天文一八年、光井天満宮を建立した。

光井尚豊(みつい なおとよ)


生没年:?〜1561
官位 :右京亮
居城 :不明
列伝 :大内家臣だったが、弘治年中に毛利家に降った。永禄四年、門司合戦で討死した。

光井尚久(みつい なおひさ)


生没年:?〜?
官位 :兵庫助
居城 :不明
列伝 :吉川家臣。尚豊の子。吉川元春の配下となり本領である周防光井庄を給された。

光井尚昌(みつい なおまさ)


生没年:?〜1572
官位 :修理大夫
居城 :美作国苫田郡横田城
列伝 :毛利家臣。永禄年中浦上宗景討伐の際、毛利方の援将となる。
その功により後に旧浦上領の内、美作苫田郡田中庄を加増された。

光永秀時(みつなが ひでとき)


生没年:?〜1525
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。毛利が尼子に帰属していた時期、尼子家の居城・月山富田城に人質として預けられていた。
が、毛利が尼子と手を切った際、月山富田城より遁走。吉田郡山城へ逃げ戻る途中、井上元貞らと共に討ち取られた。

光永元方(みつなが もとかた)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。通称・新四郎。天文二一年七月、備後志川瀧山城攻略戦にて功を挙げた。

三戸元久(みと もとひさ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。天文九(1540)年、尼子軍が吉田郡山城を攻撃した際、九月六日の合戦で功を挙げた。

三刀屋久祐(みとや ひさすけ)


生没年:?〜1591
官位 :弾正忠
居城 :出雲国飯石郡三刀屋城
列伝 :出雲国人。久扶とも呼ばれる。天文九(1540)年、尼子晴久の吉田郡山城攻めに従軍し、敗戦後大内家に寝返るも、後に大内義隆の出雲侵攻の最中に再帰参。永禄六(1562)年、毛利軍の出雲侵攻により毛利家に属すなど、各勢力の間を巧みに渡り歩いた。
後に徳川家康に近づこうとしたのが露見。出雲から追放された。(ただ、実際には接触したと言う形跡は無く、冤罪であった)

南方親定(みなかた ちかさだ)


生没年:?〜?
官位 :出羽守
居城 :安芸国山県郡烏尾城
列伝 :毛利家臣。大内軍が月山富田城を包囲した際、敵方の河本弥兵衛の館を秋山親吉と共に占拠していたが、長雨により富田川の水位が増し、尼子軍の集中攻撃を受け危機に陥る。
ただし、この時、元就が自ら手勢を率い、尼子軍を撃退したため、窮地を脱出した。

南方就正(みなかた なりまさ)


生没年:1540〜1599
官位 :宮内少輔・壱岐守
居城 :周防国佐波郡右田ヶ嶽城
列伝 :毛利家家臣。南方家は元々門司家の支流・大積門司家の出身で、就正の父・元次から毛利興元に仕え、譜代家臣として扱われた。
大内家滅亡後、就正は佐波郡右田ヶ嶽城(山口県防府市)城代に任命される。これ以降、就正は右田ヶ嶽城主として、山口奉行・市川経好の補佐をする。
(注・この右田ヶ嶽は山口を南から守るための拠点であり、毛利家の防長支配において、欠かすことの出来ない城である。この事から、南方就正は元就・輝元から深い信頼を得ていたのだと思われる)
大内輝弘の山口侵攻の時、輝弘敗走の際、これを追いかけ、輝弘の首を上げる。後に天正九(1581)年9月頃、粟屋元定らと共に、備中忍山相城(現・岡山市)に在番。

南方就由(みなかた なりよし)


生没年:?〜?
官位 :刑部大輔
居城 :安芸国山県郡烏尾城
列伝 :南方元次の子。就正の兄。
大酒飲みだったらしく、元就が弟・就正に就由の深酒を慎む旨の書状を送っている。
一説によると、とある合戦で模様見をしたため、誅殺されたとされる。

南方元雅(みなかた もとまさ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :南方就正の子。通称・又五郎。寛永六年、家督相続し、六〇〇石の知行を安堵された。

南方元俊(みなかた もととし)


生没年:1579〜1641
官位 :宮内少輔・壱岐守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。通称・又二郎。文禄の役の際、肥前名護屋の守備に付いた。

南方元恵(みなかた もとよし)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。通称・又次郎。山代一揆討伐に功があった。

皆木勝重(みなぎ かつしげ)


生没年:?〜?
官位 :修理進
居城 :不明
列伝 :大内家臣。永正一七年、山口高嶺大神宮の社壇建立の普請奉行を勤める。

壬生元泰(みぶ もとやす)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :安芸国山県郡有田城
列伝 :安芸国人。永正十二年、一門の山県某が安芸守護武田元繁と共に大内方の己斐城を攻撃した際に吉川元経・毛利連合軍の攻撃を受け有田城は落城。元泰は毛利家に臣従した。

三増直近(みます なおちか)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。打明・御座姓を称す。後に就直。天文二十三年九月、能美島の陶与党を攻撃した際、功を挙げた。

南 景久(みなみ かげひさ)


生没年:?〜1555
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。通称・勘兵衛。厳島合戦の際、三浦房清隊の猛攻を受け討死した。

三村家親(みむら いえちか)


生没年:?〜1566
官位 :修理亮・紀伊守
居城 :備中国川上郡成羽鶴首城→備中国川上郡松山城
列伝 :備中国人。毛利家に属し、永禄四(1561)年、松山城の庄高資を打ち破り、備中一の勢力を築き上げた。毛利軍が尼子領へ侵攻した際には毛利家の要請を受け伯耆へと侵入。入江・杉原・行松・南条らと共に伯耆の尼子方拠点の攻略に功があった。
後に備前・美作に進出。美作三星城攻略には失敗するも、再度備前・美作に侵入。
宇喜多領の諸城を降すも、美作興善寺に在陣中、宇喜多の刺客・遠藤喜三郎・又次郎兄弟の狙撃を受け、死去した。
鉄砲の狙撃で暗殺されたのは戦国見回してもこの家親くらいではなかろうか。

三村親成(みむら ちかなり)


生没年:?〜?
官位 :越前守
居城 :備中国川上郡鶴首(成羽)城(岡山県高梁市成羽町)
列伝 :三村宗親の子。通称・孫兵衛。兄・家親の死後、甥の元親を補佐した。
後に三村家が織田に寝返る際、反対していた親成は嫡子の親宣と共に、小早川隆景の傘下に入り、先陣を務めた。(この時、赤木・楢崎・清水ら国人衆も毛利家に寝返っている)
三村家滅亡後、川上郡に三四五一石の所領を得、鶴首城主となった。この時、三村姓から在地の地名を取り成羽親成と名乗る。(毛利家の分限帳には成村姓となっている)
客将として一時期水野勝成を抱えており、その縁で関ヶ原後、備後福山に封ぜられた際、家老として一五〇〇石を得た。

宮川興房(みやがわ おきふさ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。房長の父。山城船岡山合戦にて功を挙げた。

宮川房長(みやがわ ふさなが)


生没年:?〜1554
官位 :左馬助・甲斐守
居城 :周防国玖珂郡高森城
列伝 :陶家家臣。山代地方の代官を勤める。毛利元就が反旗を翻した際、七〇〇〇の兵と共に安芸に侵攻するも、折敷畑の合戦で敢え無く討ち死にした。

三宅元重(みやけ もとしげ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。通称・才阿弥。天文九年、吉田郡山城外・大田口合戦で戦功を挙げ、感状を得た。

宮荘家正(みやそう いえまさ)


生没年:?〜?
官位 :雅楽允
居城 :不明
列伝 :吉川家臣。今田春賀・今田家成・吉川経実と共に岩国藩宿老を勤めた。

宮 光音(みや みつなり)


生没年:?〜1552
官位 :不明
居城 :備後国深安郡志川滝山城
列伝 :備後国人。尼子家に属す。
天文二十一(1552)年、毛利軍の侵攻を受け、敗北。光音は捕縛され斬首された。

三吉隆亮(みよし たかすけ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :備後国比婆郡比叡尾山城
列伝 :備後国人。致高の子。
天文二十二(1553)年、毛利家に従属。知行六〇〇〇石与で、比較的独立心の強い家臣だった。
娘は元就の側室となり、椙杜元秋・出羽元倶・末次元康を生んだ。

三吉隆信(みよし たかのぶ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :安芸国高田郡勝山城
列伝 :安芸国人。別名粟屋刑部隆述とも。右兵衛大夫久高の次男。
尼子晴久が吉田郡山城に侵攻した際、その道案内を勤めた。
兄政高が早世した為、その子保高(致高)を補佐していたが、隆信の力が大きくなるのを恐れた致高は、天文年間(1532〜1555)に隆信を殺害。
以後、粟屋五郎左衛門が勝山城に居住し、毛利家に属した

三吉広高(みよし ひろたか)


生没年:?〜1634
官位 :備後守
居城 :備後国比婆郡比熊山城
列伝 :三吉隆亮の子。比熊山城を築く。関ヶ原後毛利家が減封されると、浪人する。後に広島に移封した浅野家に仕官した。

三吉元高(みよし もとたか)


生没年:?〜?
官位 :式部大輔
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。豊前宇留津城攻略の殊勲者として輝元より賞された。

美和郷幸(みわ さとゆき)


生没年:?〜1577
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣だったが、毛利軍の周防侵攻の際降伏し、長門美禰郡の知行を安堵された。

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