×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。



己斐隆次(こい たかつぐ)


生没年:?〜1552
官位 :不明
居城 :安芸国佐西郡己斐城
列伝 :安芸国衆。己斐氏一門か。 天文二十一(1552)年、芸州己斐城合戦において、吉見家臣・下瀬頼定に討ち取られたとされる。

己斐直之(こい なおゆき)


生没年:?〜?
官位 :豊後守
居城 :安芸国佐西郡己斐城
列伝 :安芸神領衆の一人、安芸武田→大内→毛利と所属を変える。厳島の合戦の際には、草津城代だった新里式部とともに、宮尾城に入り、奮戦した。

己斐師道(こい もろみち)


生没年:?〜1515
官位 :豊後守
居城 :安芸国佐西郡己斐城
列伝 :安芸武田家臣。後に宗瑞入道と称す。 安芸有田合戦で武田元繁に従って出陣するも、元繁が討死すると、伴・品川・粟屋・香川勢と共に退却するも、その途中で香川行景と共に引き返し、壮絶な討死を遂げた。

国府市正(こう いちまさ)


生没年:?〜1582
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :備中国人。石川家(後に清水家)に属していたと思われる。
天正一〇(1582)年の備中高松城攻略戦の際には、清水宗治の元で部将として活躍したが、落城。
宗治の介錯を勤めた後、自分も自害した。

神代兼固(こうじろ かねかた)


生没年:?〜?
官位 :蔵人
居城 :不明
列伝 :大内家臣。大内家滅亡後、毛利家に降り、長門厚狭・美禰郡の所領を安堵された。

神田貞安(こうだ さだやす)


生没年:?〜?
官位 :蔵人丞・豊前守
居城 :不明
列伝 :山代衆の一人で本郷村の地侍。甲田丹後守の子。
山代衆は周防玖珂郡北部の山代十三郷の領主達で、大内家に属していた。
貞安は厳島合戦後、父丹後守と袂を分かち、三分一・松原らと共に毛利家に降伏。その後は毛利家に仕えた。

神田元重(こうだ もとしげ)


生没年:1550〜1569
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :神田貞安の子。通称・二郎三郎。
永禄一二(1569)年、筑前立花山攻防戦において討死した。

河内煕資(こうち ひろすけ)


生没年:?〜?
官位 :備後守
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。天正五年、末長景道・岡就栄・井上春忠・桂景信と共に国貞景氏に所領の打渡を行う。

河内山昌兼(こうちやま まさかね)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。朝鮮征伐の際、小早川隆景隊に属す。隆景死後は浪人となり、知行地だった熊毛郡伊保庄に寓居した。

河内義信(こうち よしのぶ)


生没年:?〜?
官位 :筑後守
居城 :安芸国佐伯郡土井岡城
列伝 :河内長義の子。河内家は河内源氏の流れを汲むとされている。
義信は小早川隆景に仕えた。

河野就久(こうの なりひさ)


生没年:?〜?
官位 :修理大夫
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。春重の子。毛利家が防長両国へ封じられると阿武郡大井に移り萩伊予八幡神社の神主となった。

河野春重(こうの はるしげ)


生没年:?〜?
官位 :左近大夫
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。伊予河野家の一族で、父の代より毛利家に仕える。
永正一七年、安芸横田松尾要害合戦の際感状を賜る。後に出雲国内で所領を得た。

河野通一(こうの みちかず)


生没年:?〜1581
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :伊予河野家の末裔。通称・四郎兵衛。天文十年、本家河野元政とともに芸州に降り、毛利家に仕える。

河野通軌(こうの みちのり)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :宍戸元秀の子。旧名宍戸景好。河野通直の養子となる。文禄の役における雲龍閣事件((秀吉暗殺未遂事件。但し真偽は未詳)の首謀者。1600年、関ヶ原の大乱に乗じて、御家再興の兵を挙げるも、加藤嘉明の留守兵に撃破される。

河野通良(こうの みちよし)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :河野元通の三男。元政の弟で元政と共に毛利家に仕え、備中に所領を得た。

河野元政(こうの もとまさ)


生没年:?〜1581
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :伊予出身。旧姓渡。河野氏の一族で天文一〇年から毛利家に仕え、足軽五〇〇人を預けられる。
後に鳥取城攻防戦の際、吉川経家とともに篭城しその最中に起こった合戦において討死した。

河野元通(こうの もとみち)


生没年:?〜?
官位 :但馬守
居城 :不明
列伝 :毛利水軍の海将。伊予河野家との関係は不明。児玉就英配下として、雲伯海上封鎖戦に出撃し、元亀元(1570)年十月十三日、出雲中海西岸・本庄沖で尼子水軍と戦い、河野雅楽允・黒河孫兵衛・内藤弥七郎らとともに戦果を挙げ、元就・輝元から賞された。

小坂春信(こさか はるのぶ)


生没年:?〜?
官位 :左衛門大夫
居城 :不明
列伝 :吉川家臣。吉川経言(後の広家)が羽柴秀吉の下へ人質として送られた際、その従者として赴いた。

児玉景栄(こだま かげひで)


生没年:1557〜1579
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :児玉就方の次男。小早川隆景に仕える。
天正七年十二月十一日、美作宮山で討死した。

児玉就方(こだま なりかた)


生没年:1512〜1586
官位 :内蔵丞・周防守
居城 :安芸国佐東郡草津城
列伝 :法名:常真。児玉元実の三男。就忠の弟。兄・就忠の推挙を受け、元就家臣となる。安芸武田家滅亡後、その遺臣団をまとめ、飯田義武とともに、川の内水軍の頭領を命じられる。その後は毛利水軍の筆頭として、瀬戸内を駆け巡る。

児玉就忠(こだま なりただ)


生没年:1506〜1562
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :児玉元実の次男。一族・児玉家行の養子となり、その遺領を相続する。元就の側近として活躍。後に五奉行の一人に任じられ、また元就と隆元を繋ぐ役割を果たすなど、毛利家に欠かせない人物だった。

児玉就英(こだま なりひで)


生没年:1543〜?
官位 :周防守
居城 :安芸国佐東郡草津城
列伝 :児玉就方の嫡男。父の後を継ぎ、毛利水軍の提督として活躍する。

児玉就光(こだま なりみつ)


生没年:?〜1590
官位 :豊前守
居城 :不明
列伝 :児玉就兼の子。天文九(1540)年の吉田郡山籠城戦をはじめ、各地で武功を挙げ、周防富田郷・安芸山里などで給地を宛がわれた。
後に奉行の元で日常の政務を掌った番衆の一人となっている。

児玉元方(こだま もとかた)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :児玉就英の子。軍役を負担できず廃嫡された。
が、小早川隆景の配慮で桑原元勝の遺領を継承することになった。

児玉元茂(こだま もとしげ)


生没年:?〜1594
官位 :越前守
居城 :不明
列伝 :児玉元保の子。通称・十郎右衛門。
天文二十二(1553)年の備後三若城攻めや同二十三年の安芸明石口の合戦などに参陣し、武功を挙げた。

児玉元保(こだま もとやす)


生没年:?〜1543
官位 :越前守
居城 :不明
列伝 :児玉広家の次男。通称・四郎右衛門。宍戸・安芸武田勢などとの合戦で戦功を挙げたが、天文一二(1543)年、月山富田城から退却中に討死した。

小寺就武(こでら なりたけ)


生没年:?〜?
官位 :木工允
居城 :備後国世羅郡岩熊城
列伝 :毛利家臣。天正八年、備前虎倉城を攻撃しようとしたが、備中上加茂で宇喜多方の伏兵に甚大な損害を受け敗走した。

小寺元武(こでら もとたけ)


生没年:?〜?
官位 :佐渡守
居城 :備後国世羅郡岩熊城
列伝 :毛利家臣。備後国人。通称・十郎左衛門尉。卓越した外交能力を持っていた。
防長侵攻の際、小倉元実と共に豊後の大友宗麟の元に出向き、防長への干渉を取り除くことに成功した。また、笠岡村上家(能島村上水軍の一族)を毛利家に臣従させることに成功した。
後に伯耆河岡城に入城し、永禄七年南条宗勝と共に西因幡へ侵入。武田高信と共に山名・尼子連合軍を粉砕した。

後藤行友(ごとう ゆきとも)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。通称・七左衛門。吉見惣領家改易後、生田頼重・吉賀元貞らと共に萩藩に召抱えられた。

小早川繁平(こばやかわ しげひら)


生没年:?〜?
官位 :不明守
居城 :備後国豊田郡古高山城
列伝 :安芸国人。沼田小早川家当主。父・正平の死後家督を継ぐが、尼子家への内通疑惑を受けた大内義隆の命により高山城外に拘束される。
後に毛利元就の三男・隆景が小早川家を継承すると、教真寺に入り、剃髪した。
尼子家内通疑惑だが、繁平個人は恐らく関与していなかったのであろうが、父・正平もかつて同様の疑惑で幽閉され、また叔父の常平も尼子家内通により自害させられている事、更に安芸南部の有力国人と言った数々の事情から仕方の無い事であったと思われる。

小早川常平(こばやかわ つねひら)


生没年:?〜1541
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :沼田小早川一門。天文一〇年尼子軍に通じた罪で処断された。
子は大内家に人質として送られるも義隆に気に入られ、後に平賀家を継いだ隆保。

小早川秀包(こばやかわ ひでかね)


生没年:1567〜1601
官位 :筑後守・侍従
居城 :筑前国久留米城
列伝 :幼名・才菊丸。通称・藤四郎。旧名元総。毛利元就の九男。天正七(1579)年、備後国の国人・太田英綱の養子となる。更に、子のいない兄・小早川隆景の養子となる。本能寺の変後、吉川広家と共に、羽柴秀吉の元に人質に入るも、秀吉に気に入られたのか、長久手決戦に従軍させ秀吉の一字を与えて秀包と名乗らせるなど、さまざまな恩義を受けた。豊臣秀秋(後の小早川秀秋)が小早川家に入ることになった為、分家として、筑後久留米一三万石の領主となる。関ヶ原決戦の際には、毛利宗家に従い西軍に属し、大津城攻防戦に参戦するも、西軍の敗退により、改易され、玄済道叱(げんさいどうしつ)と名乗った。子の元鎮は吉敷郡に七〇〇〇石を与え、吉敷毛利家の祖となる。

小早川正平(こばやかわ まさひら)


生没年:1523〜1543
官位 :掃部頭・備後守・美作守
居城 :備後国豊田郡古高山城
列伝 :小早川興平の子。詮平(あきひら)とも称される。祖父・父共に早世した為4歳で家督を継承する。
天文八(1538)年、尼子家に寝返ろうとしたが、大内方に露見。古高山城を占拠され、大内家の城番の監視下に置かれた。
後に大内軍の出雲侵攻に従軍するも国人衆の寝返りにより敗北、退却の途中、出雲鳶巣(とびのす)川で討死した。

小早川元鎮(こばやかわ もとしげ)


生没年:1591〜1672
官位 :式部少輔・左馬助・民部大輔
居城 :不明
列伝 :小早川秀包の嫡男。元信・元好・元総とも。毛利家減封後、筑後久留米一三万石から吉敷郡七〇〇〇石に移され、吉敷毛利家の初代となる。

権藤種盛(ごんどう たねもり)


生没年:?〜1600
官位 :不明
居城 :日向国宮崎城
列伝 :高橋元種の家臣で、日向宮崎城を任される。関ヶ原の際に、東軍に付いた伊藤祐慶家臣・稲津重政に攻められ、討ち取られた。


列伝に戻る