香川景貞(かがわ かげさだ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。慶長十年、輝元の命により三輪元祐を誅殺した。

香川景連(かがわ かげつら)


生没年:?〜1569
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。通称・宗兵衛。永禄十二年、周防徳地で起こった一揆の鎮圧に失敗し討死した。

香川勝雄(かがわ かつたか?)


生没年:?〜1569
官位 :右衛門
居城 :不明
列伝 :安芸香川家臣。安芸阿生山の大蛇退治の伝説で知られている。
永禄十二(1569)年、美作岩屋城攻防戦で奮戦するも討死した。

香川就親(かがわ なりちか)


生没年:?〜?
官位 :左馬助
居城 :不明
列伝 :香川元正の弟、弘治元年、兄と共に厳島合戦に従軍した。

香川春景(かがわ はるかげ)


生没年:?〜?
官位 :兵部大輔
居城 :不明
列伝 :天正三年、小坂越中と共に杉原盛重の検使として因幡へ出陣し、草苅景継と共に若桜鬼ヶ城を攻囲した。

香川春継(かがわ はるつぐ)


生没年:?〜?
官位 :兵部少輔
居城 :不明
列伝 :香川光景の次男。美作三浦家遺臣との合戦で活躍した。文事にも優れ、後に岩国吉川藩の家老となる。孫の正矩は「陰徳太平記」の作者として知られている。

香川広景(かがわ ひろかげ)


生没年:?〜?
官位 :左衛門尉
居城 :安芸国佐伯郡八木城
列伝 :香川光景の嫡子。永禄八(1565)年、四月一七日、月山富田城に攻撃を仕掛けた際、尼子義久守る御子守口に五〇〇の兵を率い尼子兵二〇〇を粉砕した。
永禄十二年に三浦・尼子連合軍が美作に侵攻すると援軍として当地に赴き、奮戦した。
後に木津川口海戦にも一手を率い参加する。

香川光景(かがわ みつかげ)


生没年:?〜?
官位 :左衛門尉
居城 :安芸国佐伯郡八木城
列伝 :安芸国人。安芸武田家に属していたが、己斐直之・熊谷信直・福島親長らと共に大内に通じる。
後に厳島前後に毛利に従い東林坊と共に仁保島城の城番を勤め、攻め込んできた三浦房清を撃破した。
永禄十二年、尼子家の後援を受けた三浦貞広が美作高田城を攻め立てると、援軍として当地に向かい、撃破に成功した。

香川元正(かがわ もとまさ)


生没年:?〜?
官位 :淡路守
居城 :不明
列伝 :香川光景の弟。弘治元年、弟・就親と共に厳島合戦に従軍した。

柿並隆正(かきなみ たかまさ)


生没年:?〜1555
官位 :佐渡守
居城 :不明
列伝 :陶家臣。隆幸の子。厳島合戦において陶晴賢に最期まで付き従い、晴賢が自刃した後その首を隠し、山崎隆方・伊香賀隆正と刺し違えて死んだ。

柿並隆幸(かきなみ たかゆき)


生没年:?〜1554
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :陶家臣。通称・小平太。弘慶の子。折敷畑の合戦において討死した。

笠井重政(かさい しげまさ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。大阪冬の陣の際、輝元の密命を受け、佐野道可(内藤元盛)らと共に大阪城に入城した。

堅田元慶(かただ もとよし)


生没年:1568〜1622
官位 :兵部少輔・大和守
居城 :備後国三原城
列伝 :粟屋元通の次男。旧名粟屋元勝。隆景の猶子となり小早川の苗字を許されるも、これを固辞。代わりに輝元から堅田姓を与えられた。隆景の伊予国替えにより三原城留守居を申し付けられる。隆景死後は、毛利家家臣に編入された。

賀田盛実(かた もりざね)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :長門一宮大宮司。弘治三(1557)年、長門で大内残党が蜂起すると、勝間田就盛と共にこれを鎮圧した。

片山連総(かたやま つらふさ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :安芸国天秀庵(片山)城
列伝 :因島村上水軍の海将。通称数馬。船奉行を務める。

片山久義(かたやま ひさよし)


生没年:?〜?
官位 :木工助
居城 :美作国苫田郡沖溝城
列伝 :草刈家臣。天正八(1580)年、宇喜多軍の攻撃を受けるも、頑強に防戦し、城を守りぬいた。

勝間田就盛(かつまた なりもり)


生没年:?〜1619
官位 :右馬頭
居城 :長門国豊浦郡櫛崎城
列伝 :内藤家臣。弘治三(1557)年、問田亀鶴丸(大内義隆遺児)を旗頭にした大内旧臣が防州障子岳で挙兵した際、勝間田盛道と共に鎮圧に向かった。

勝間田春実(かつまた はるざね)


生没年:?〜?
官位 :備前守
居城 :長門国豊浦郡櫛崎城
列伝 :内藤家臣。勝間田矩益の次子。丹波船岡山合戦・山城千本口合戦で功があった。

勝間田盛治(かつまた もりはる)


生没年:?〜?
官位 :備前守
居城 :長門国豊浦郡櫛崎城
列伝 :内藤家家臣。内藤隆世の名代として石見吉見攻めに出陣した。子の盛長は内藤隆春に出仕した。

勝間田盛道(かつまた もりみち)


生没年:?〜1593
官位 :不明
居城 :長門国豊浦郡櫛崎城
列伝 :内藤家臣。 弘治三(1557)年、大内遺臣が反乱を起こした際、鎮圧に向かう。
後に大内輝弘が山口に侵攻した際、防州打石で軍功を挙げるなど、主に防長の治安維持に貢献した。

勝屋興久(かつや おきひさ)


生没年:?〜1557
官位 :右馬允
居城 :周防国都濃郡殿浴山城
列伝 :陶家家臣。相良正任の子。山崎興盛の須々万沼城が毛利軍に攻められたとき、援軍として入城。後に討ち死にした。

桂 景種(かつら かげたね)


生没年:?〜?
官位 :宮内少輔
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。小早川家が筑前に移封後、『御奉行衆』の一員(他に井上春忠・鵜飼元辰・手島景繁)として辣腕を振るった。

桂 景信(かつら かげのぶ)


生没年:?〜?
官位 :右衛門太夫
居城 :不明
列伝 :桂元澄の四男。隆景の元で奉行人を勤めた。

桂 繁次(かつら しげつぐ)


生没年:?〜?
官位 :紀伊守
居城 :不明
列伝 :久留米小早川家臣。桂広繁の次男。天正一〇年、父と共に備中加茂城に篭城し、寝返った生石勢らを撃破した。
小早川秀包に属し、朝鮮出兵などで武功を上げた。

桂 就宣(かつら なりのぶ)


生没年:?〜?
官位 :左衛門尉
居城 :備前国津高郡忍山城→美作国小寺畑城
列伝 :毛利家臣。天正十一年岡元辰と共に備前忍山城将を勤め、翌年二月より美作方面へ転出し美作小寺畑城将となる。

桂 就延(かつら なりのぶ)


生没年:?〜?
官位 :紀伊守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。旧名・元信。通称・源右衛門尉。桂広澄の三男。天文一九(1550)年、元就の命により、郡山城に登城した井上就兼を誅殺した。
同年七月二十日、家臣二三八名が毛利家が忠誠を再確認した起諸文において九番目に署名した。
元亀元年には出雲鴟ノ巣城を守備した。

桂 広繁(かつら ひろしげ)


生没年:?〜?
官位 :民部大輔
居城 :備中国加茂城
列伝 :桂元澄の子。後に快友入道。羽柴秀吉の備中高松城攻撃の際、支城である鴨庄城に援軍として入り、城将・生石治家が寝返るが、城を守りぬいた。
戦後・羽柴家に人質として出された小早川元総(後の秀包)にしたがって大阪に赴く。それ以降秀包に仕え、関ヶ原の際には、白井洞竹入道(景俊)らと共に筑前久留米城代を務めたが、東軍勝利の報が届くと、黒田如水に降伏した。

桂 広信(かつら ひろのぶ)


生没年:?〜?
官位 :兵部丞
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。天正十一年八月、包久景勝・杉長相と共に伊予河野氏への援軍として送られ、伊予中野城を攻撃した長宗我部軍を撃退した。

桂 元澄(かつら もとずみ)


生没年:1499〜1569
官位 :左衛門尉
居城 :安芸国大野郡桜尾城
列伝 :桂広澄の嫡男。毛利元就・元綱の家督相続戦の際、広澄が自害すると、弟・元忠と共に、居城に立てこもるも、元就に説得される。
1554年、毛利軍が安芸西部に侵攻すると、廿日市の桜尾城を任される。後に、晴賢に偽の内応状を提出する。以後、厳島神領の管理を任される

桂 元忠(かつら もとただ)


生没年:1499〜1569
官位 :左衛門太夫・上総介
居城 :不明
列伝 :桂広澄の次男。毛利元就・元綱の家督相続戦の際、広澄が自害すると、兄・元澄と共に、居城に立てこもるも、元就に説得される。1550年、五奉行制度が確立されると、その一員として活躍し、元就と隆元のパイプ役も果たした。
元就から、才覚はないが正路の人で、今時毛利家中にもこれほどの人は少ないと評価された。

桂 元将(かつら もとまさ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。天正元年、備中阿賀郡で一揆が起こった際、これを鎮圧した。
その帰り、備中神代で一揆残党の襲撃を受けたが、これを鎮圧、三村元親から、太刀一振、黄糸腹当一領を賜った。

包久景勝(かねひさ かげかつ)


生没年:?〜?
官位 :宮内少輔
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。通称・少輔五郎。第一次木津川口海戦の時に一手を率いて参戦した。

包久景真(かねひさ かげさね)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。慶長年間、井上紹忍(春忠)・粟屋景雄と共に奉行職を務める。後に毛利家家臣となった。

包久景相(かねひさ かげすけ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :小早川家臣。慶長二年国貞景氏と共に備中連島の橋普請を命じられる。

鹿足元忠(かのあし もとただ)


生没年:?〜1581
官位 :民部少輔
居城 :因幡国雁金城
列伝 :毛利家臣。水軍の将を務める。天正九(1581)年、鳥取城籠城戦の折、海上から兵糧を輸送しようと試みたが、失敗。討死した。

上領直之(かみりょう なおゆき)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。頼澄の子。通称・清右衛門尉。天正一六(1588)年、阿武郡嘉年・大井・三見郷にて十五石を加増された。

上領頼兼(かみりょう よりかね)


生没年:1485〜1591
官位 :淡路守・三河守・右衛門大夫
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。吉見氏に従い、芸州・雲州等で武功を挙げる。
陶軍が吉見領に侵攻、三本松城を攻囲した際、陶本陣に夜襲を仕掛け、勝ちを得た。
後に山崎伊豆守に居城を攻撃され敗北した。

上領頼定(かみりょう よりさだ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。兄・頼武死後、家督を継承。
朝鮮出兵では、吉見元頼・広長に従い、武功を上げる。
後に吉見家滅亡後、赤木行定と名を改める。

上領頼武(かみりょう よりたけ)


生没年:1553〜1569
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家家臣。大内輝弘が山口に侵攻した際、吉見家の援軍として五〇〇の兵を率いるも、宮野口にて城井小次郎に敗北、同じく援将であった伊藤左近と共に討ち死にした。

上領頼綱(かみりょう よりつな)


生没年:?〜?
官位 :玄蕃頭
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。下瀬頼郷の次男。吉見(上領)頼明の養子となった。

上領頼長(かみりょう よりなが)


生没年:?〜?
官位 :筑前守
居城 :不明
列伝 :上領頼兼の子。永禄元年、毛利軍が石見赤城を攻略した際、弟・頼平と共に守将となった。

上領頼規(かみりょう よりのり)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :上領頼兼の子。弘治三(1557)年毛利軍が防長に侵攻した際、吉見頼員と共に手勢を率い出陣した。
後に大内輝弘が山口に侵攻した際、吉見家の援軍として五〇〇の兵を率いるも、宮野口にて城井小次郎に敗北した。
この時、援将であった伊藤実信と嫡子の頼武を失った。

上領頼平(かみりょう よりひら)


生没年:?〜?
官位 :治部少輔
居城 :不明
列伝 :上領頼兼の子。永禄元年、毛利軍が石見赤城を攻略した際、兄・頼長と共に守将となった。

上領頼康(かみりょう よりやす)


生没年:?〜?
官位 :肥後守
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。頼泰・頼次とも。天正一〇年十一月十四日、吉見廣頼から下瀬山城の普請を命じられる。

賀屋景頼(かや かげより)


生没年:?〜?
官位 :和泉守
居城 :不明
列伝 :大内家臣→毛利家臣。水軍衆の一人。厳島合戦後、毛利家に降り、岩国に進出した吉川元春を自らの屋敷で歓待した。
後に冷泉元満らと共に上方の制海権を守った。

萱島元規(かやしま もとのり)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利秀元家臣。通称杢兵衛。朝鮮出兵に従うも、1593年、朝鮮に投降。朝鮮王から折衝行上将軍に任じられた。

烏田景通(からすだ かげみち)


生没年:?〜?
官位 :右京進・右馬頭
居城 :不明
列伝 :筑前国衆。怡土郡で七五〇町を領していた。

河北俊興(かわきた としおき)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :備後山内家臣だったが、天文十二年、出雲から退却した元就が備後甲山城へ立ち寄った際、護衛として付けられた三六人の内の一人で、そのまま毛利家に仕えた(この時、湯川元常らも同じく毛利家に仕官している)

河津隆家(かわづ たかいえ)


生没年:1533〜1570
官位 :掃部介
居城 :不明
列伝 :宗像家臣。宗像郡西郷を拠点とする西郷党の首領として、大内家、後に宗像家に属し、立花家と長年争った。
が、毛利軍が北九州より撤退後、宗像家が大友家と講和した際、その条件として隆家の首を要求される。
氏貞はこれを断るも、やむを得ず最終的には隆家は討たれ、西郷党は鞍手郡若宮に移された。
これが遺恨となり、後に立花家と宗像家の間に再び合戦が起こる。

河津久家(かわづ ひさいえ)


生没年:?〜1542
官位 :不明
居城 :出雲国末次城
列伝 :出雲国人。尼子に属す。が、尼子晴久が吉田郡山城攻略に失敗すると、吉川・三沢ら諸将と共に大内方に付く。
が、天文十二年大内義隆が出雲で大敗を喫すると孤立し、滅ぼされた。

河原直久(かわはら なおひさ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :三村家臣。通称・六郎左衛門。元々は備前国上道郡加茂郷(岡山県加賀郡吉備中央町)の出身で伊賀久隆に仕えていた。
後に三村家家臣となるも、備中兵乱の中で毛利家に内通。松山城内に兵を誘い込んだ。

川村重吉(かわむら しげよし)


生没年:1575〜1648
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :川村常吉の子。通称・孫兵衛。水利・算数に精通し、毛利輝元に仕えるが、関ヶ原後、毛利家減封の為浪人するも、その能力を認められ、伊達政宗に仕える。後に北上川の流路変更工事を行った。

河屋隆通(かわや たかみち)


生没年:?〜?
官位 :因幡守
居城 :不明
列伝 :大内家臣。大内家滅亡後、大庭賢兼・波多野(吉見)興滋・仁保隆慰らと共に、山口奉行の補佐を務める。

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