穂井田元清(ほいだ もときよ)


生没年:1551〜1597
官位 :治部大輔・伊予守
居城 :安芸国佐伯郡桜尾城→備中国小田郡猿掛城
列伝 :毛利元就の四男(実際には五男?)。来島通康の娘を正室とし、穂井田民部大輔元資の養子となる。対織田戦に活躍を見せ、備中高松城攻防戦では、備中加茂城の救援に向かう。後に木下秀秋(後の小早川秀秋)の毛利家への養子話が出ると、自分の子・秀元を輝元の養子とする。朝鮮出兵の際には、秀吉の命で、虎を二匹生け捕りにした。
小早川隆景の死後を追うように死去した。隆元・元春・隆景・そして元清の四人を『毛利の四ツ矢』とも称する。

細川通菫(ほそかわ みちただ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :備中国浅口郡鴨山城
列伝 :元備中守護・細川家七代目当主。通薫とも。
この頃の細川氏は備中を追われ、伊予川之江城に逃れていたが、毛利家の助力を受け鴨方の地を回復。弘治四(1559)年、服属した。
元亀二(1571)年、尼子軍が備中に侵攻した際、浅口郡杉山城に籠り防戦し、敵方津々加賀守・福井孫左衛門を討ち取ったが、敗れ去り幸山城に逃げ込んだ(「中国兵乱記」によると、尼子伊勢守晴久の命によりとなっているが、既に尼子家は滅亡したあとなので、尼子勝久の命だと思われる)。

細川元通(ほそかわ もとみち)


生没年:?〜1589
官位 :下野守
居城 :備中国浅口郡鴨山城・青佐山城
列伝 :細川通菫の子。通称・浅口少輔九郎。毛利家に属し備中勢の一員として武功を上げた。
後に浅口姓を名乗り、浅口郡の一円支配を認められ、六〇七一石の知行を有した。
毛利家が防長移封に従い、長府藩の家老となった。

堀立直正(ほたて なおまさ)


生没年:?〜?
官位 :壱岐守
居城 :不明
列伝 :安芸佐東川(太田川)河口(今の広島市付近)の商人だが、海上戦力を持った、海の国人である。毛利家に属し、防長制圧後は赤間関(今の山口県下関市)の代官に就任した。私財で門司・三岳・香春岳城の築城を行ったとも言われている。

堀 重利(ほり しげとし)


生没年:?〜1561
官位 :不明
居城 :石見国邑智郡市来桜尾城
列伝 :石見国人。通称小太郎。毛利家に属していたが、天文十八(1549)年、毛利家を離れ福屋氏の与党となる。
永禄四(1561)年、福屋隆兼が反旗を翻した際これに従い、一木三坂で吉川軍を迎え撃ったが敗北。桜尾城中で討死した。

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