日野景幸(ひの かげゆき)


生没年:?〜1623
官位 :不明
居城 :伯耆国日野郡生山城
列伝 :宮景盛の次男で、山名藤幸の養子に入った。伯州生山城を領し、地名から日野姓を名乗った。
伊予高尾城攻撃や豊前香春嶽城攻撃、朝鮮征討等で武功を挙げる。
後に伯耆三郡(日野・会見・汗入)が毛利直轄領となった事から安芸に移された。
朝鮮出兵時に本領を嫡子・元重に譲り、小早川隆景、後に小早川秀秋に仕え、四〇〇〇石を領した。

日幡景親(ひばた かげちか)


生没年:?〜1582
官位 :不明
居城 :備中国都宇郡日幡城
列伝 :備中国人の一人。通称・六郎兵衛。清水宗治に属し、「境目七城」(高松・日幡・加茂・庭瀬・松島・冠山・宮路山)の一翼を担う。
羽柴軍に攻められた際に、援将の上原元祐が寝返り、元祐を討ちに行こうとして、逆に、同じく寝返った弟の大森蔵人に討ち取られた。

平賀隆宗(ひらが たかむね)


生没年:1525〜1549
官位 :不明
居城 :安芸国頭崎城
列伝 :平賀興貞の子。父・興貞が尼子方に寝返り、毛利軍に討たれた為、家督を継承した。後に神辺城の杉原理興との戦の最中、病死した。

平賀隆保(ひらが たかやす)


生没年:?〜1551
官位 :不明
居城 :安芸国頭崎城
列伝 :安芸国人。旧姓小早川。小早川庶流出身で大内義隆の命により平賀隆宗の後を継いだ。
義隆死後、毛利軍の侵攻に逢い自刃。平賀家は隆宗の弟・広相が継ぐ事となった。

平賀広相(ひらが ひろすけ)


生没年:1528〜1567
官位 :蔵人大夫
居城 :安芸国頭崎城
列伝 :安芸国人。平賀興貞の子。平賀家は出羽平賀氏の一族で、安芸国高屋保(現:東広島市高屋町)を本拠としていた。兄・隆宗の死後、本来は平賀家を継ぐはずだったが、主君である大内義隆の命により、小早川隆保に家督を奪われた。が、大内義隆死後、毛利家の援助を受け、隆保を討ち取り、平賀家の当主に納まった。
 後に、吉見家討伐に対し、旗色を明らかにしない毛利元就に陶晴賢は業を煮やし、周辺の安芸国人衆に、毛利を離れ陶に同心するよう、勧誘の使僧を派遣した際、広相は使僧を捕らえ、吉田郡山城の元就のもとへ突き出し、去就に悩む毛利家に安芸・国人衆の思いをぶつけた。

平賀元相(ひらが もとすけ)


生没年:1547〜1645
官位 :兵庫頭
居城 :安芸国頭崎城
列伝 :平賀広相の子。毛利氏の家臣。毛利家中では一五四二一石を領する(毛利家中では8番目に多い)。豊臣氏と縁があったのか、1596年には豊臣姓を賜っている。
関ヶ原の戦いによる主家の没落により領地が縮小されると隠居して京都に住む。1636年に萩へ帰還。99歳の長寿を保っていた。

平佐就之(ひらさ なりゆき)


生没年:1530〜1612
官位 :伊豆守
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。平佐家は毛利分家中馬広貞が高田郡平佐(安芸高田市)に居住して平佐を名乗った。
就之は元就の御手廻役を務め、元就側近として活躍した。

広田重秀(ひろた しげひで)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。弘治三年福井郷三石余、川島庄八石余を加増された。

広田吉重(ひろた よししげ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉見家臣。落合兼氏の子で、重秀の養子となる。天正九年、広頼より所領を安堵される。

弘中興勝(ひろなか おきかつ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。義隆期に奉行人を勤めた。天文五年、杉長相と共に尼子方に通じた平賀興貞の討伐に派遣された。

弘中方明(ひろなか かたあき)


生没年:?〜?
官位 :民部丞・河内守
居城 :不明
列伝 :弘中隆兼の弟。厳島合戦後、岩国錦見の琥珀院で出家し、三蔵主と称し、一命を得た。
後に毛利家に仕え、弘中就慰と名乗り、三〇〇貫の所領を得る。

弘中賢俊(ひろなか かたとし)


生没年:?〜?
官位 :右衛門尉
居城 :不明
列伝 :大内家臣。大内義隆・義長期に奉行人を務めていた。
大内家滅亡後、毛利家に降り、旧大内家臣団への書状等、一部の政務を任された。

弘中隆兼(ひろなか たかかね)


生没年:1523〜1555
官位 :中務丞・三河守
居城 :周防国玖珂郡亀尾城・安芸国西条槌山城
列伝 :大内家臣。知勇兼備の名将と称された。名前は、本当は「隆包」が正しいのだが、一般的には「隆兼」と書かれることが多い。
大内家において、安芸守護代を勤め、天文十二(1543)年、義隆の命により安芸西条槌山城に入り、備後の情勢を探った。陶晴賢の謀反の際にはこれに従う。
江良房栄の誅殺も彼が行った。後に元就の軍略に気付き厳島上陸に反対するも晴賢はこれを聞かず上陸。厳島では最後まで奮戦するも討ち死にする。

弘中隆守(ひろなか たかもり)


生没年:?〜1555
官位 :中務丞
居城 :周防国玖珂郡亀尾城
列伝 :隆助とも。弘中隆兼の子。厳島合戦で父・隆兼と共に奮戦するも、力尽き、討死した。

弘中武長(ひろなが たけなが)


生没年:?〜?
官位 :兵部丞・越後守
居城 :不明
列伝 :大内家臣。義興時に奉行人を務める。
永正五(1508)年、義興に従って上洛し山城守護代を勤める。
永正一七(1520)年、高嶺大神宮造営の惣奉行を務める。

弘中正長(ひろなか まさなが)


生没年:?〜?
官位 :兵部丞・越中守
居城 :不明
列伝 :大内家臣。義興末期〜義隆期にかけて、奉行人を務める。享禄二(1529)年、沼間敦定と共に御厨奉行を務めている。


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