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深川胤兼(ふかがわ つぐかね)


生没年:?〜?
官位 :将監
居城 :不明
列伝 :大内家臣。周防玖珂郡の豪族、天文年間(1532〜1555)、須川・深川・大野の三村を領した。後に、三家本と姓を改め、備前と号した。

深野興房(ふかの おきふさ)


生没年:1474〜1532
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。房重とも言う。初名は興信。通称・平左衛門尉。陶弘房の三男。
天文10(1532)年、尼子軍が毛利家の本拠・吉田郡山城を攻囲した際、大内軍の援軍として派遣されたが、討死した。

深野景弘(ふかの かげひろ)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利→名島小早川家臣。通称・平右衛門尉。
小早川秀俊(後の秀秋)から筑後生葉郡で一一〇〇石の所領を得た。
子孫は後に防州防府宮市の町人となる。

深野重成(ふかの しげなり)


生没年:?〜1542
官位 :勘解由左衛門尉
居城 :不明
列伝 :大内家臣。大内家の出雲侵攻に従軍するも、天文一二(1542)年5月、出雲から退却中に自刃した。>

深野隆弘(ふかの たかひろ)


生没年:?〜1551
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。天文二〇(1551)年、陶晴賢の謀反の際、山口において討死した。

福井元信(ふくい もとのぶ)


生没年:?〜1578
官位 :出雲守
居城 :不明
列伝 :安芸武田家臣。通称・十郎兵衛尉。武田水軍の指揮官の一人だったが、安芸武田家滅亡後、毛利家に移り、山県就相らと共に、川の内警固衆の一員として瀬戸内で活躍した。
天正六(1578)年、出雲にて討死した。

福島隆弘(ふくしま たかひろ)


生没年:?〜1543
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :福島親長の子。初名は親弘。天文十二(1543)年、大内義隆の出雲侵攻に参加し、出雲にて討死した。

福島親長(ふくしま ちかなが)


生没年:?〜?
官位 :右京進
居城 :不明
列伝 :安芸武田家臣。太田川河口五ヶ村の領主。
安芸武田家に仕え、有力な水軍衆を持っていたが、安芸武田家の衰退に伴い白井・香川などと共に反武田を標榜し始め、大永五(1525)年に大内に降った。
永正一七年、皆木勝重・野原有祐と共に山口高嶺大神宮の社壇建立の普請奉行を勤める。

福島元長(ふくしま もとなが)


生没年:?〜?
官位 :大和守
居城 :安芸国佐東郡佐東銀山城
列伝 :元安芸武田家臣。安芸武田家滅亡後、毛利水軍の一角として活躍を見せた。「広島」の地名は大江広元の「広」と、福島元長の「島」の字を組み合わせて出来上がった地名とされる。

福田久重(ふくだ ひさしげ)


生没年:?〜1555
官位 :不明
居城 :備後国利鎌山(とがりやま)城
列伝 :備後国人。福田氏は南北朝時代から備後福田を領していた。
毛利氏麾下として勢力を拡大していた有地隆信と争っていたが、弘治元(1555)年、有地氏の攻撃により落城。福田氏は滅亡した。

福原貞俊(ふくばら さだとし)


生没年:1511〜1593
官位 :蔵人・左近允・出羽守・上総守
居城 :安芸国高田郡鈴尾城
列伝 :福原広俊の子。毛利元就の信任厚く、天文一九(1550)年、井上一族粛清直後に毛利家臣団が元就への忠誠を誓約した起請文の筆頭に署名した。元就の死後、吉川元春・小早川隆景・口羽通良と共に毛利四天王として輝元を補佐した。
小早川隆景と共に山陽路・瀬戸内海方面の軍事統括の任に当たった。

福原就房(ふくばら なりふさ)


生没年:?〜?
官位 :内蔵助
居城 :安芸国佐西郡草津城
列伝 :毛利家臣。旧名・時茂。天文二十三(1554)年、芸州草津城主・羽仁越前(有繁)を撃破した後、草津城将となった。

福原元秀(ふくばら もとひで)


生没年:?〜1571
官位 :不明
居城 :伯耆国会見郡米子城
列伝 :毛利家臣。尼子家滅亡後、伯耆米子城に配備されるも、元亀二(1571)年三月、尼子再興軍に身を委ねた羽倉元陰に討たれた。

福原元勝(ふくばら もとかつ)


生没年:?〜1544
官位 :中務少輔・内蔵助
居城 :不明
列伝 :福原元澄の次男、天文一三(1544)年、備後布野合戦で討死した。

福原元正(ふくばら もとまさ)


生没年:?〜1571
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :吉川家臣。毛利元春が吉川家の養子となり吉川家に入嗣する際、随身の家臣として他三五人と共に小倉山城へと入った。

福間尭明(ふくま たかあき)


生没年:?〜1553
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。天文二十三(1554)年一〇月、安芸黒瀬にいた陶氏与党を攻撃した際、討死した。

福間元明(ふくま もとあき)


生没年:?〜1586
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。通称・彦右衛門。毛利水軍の海将として木津川河口海戦等で活躍する。また、備中阿井の渡し(現:岡山県高梁市)で山中鹿之助を討ち取った。後に、羽柴勢による九州征討の際、門司で討死。元明の亡骸は門司大里(現:北九州市門司区)に埋葬され、目印として、松の木が植えられた。後に、「福間松」と呼ばれるようになる。

福屋隆兼(ふくや たかかね)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :石見国那賀郡音明城
列伝 :石見国衆。毛利家に属していたが、同じ石見国衆の小笠原長雄が降ると、井田・波積を没収され、邇摩郡で代地を給与される。
これを不満に思った隆兼は同じ石見国衆・三隅隆繁・周布元兼を誘い永禄四(1561)年、挙兵。石見鰐走城の牛尾久清の手勢を支城・河上松山城に入れ、毛利方の石見福光城を攻撃した。
が、毛利軍の反撃を受け、河上松山城を失陥し、音明城も攻囲され、夜陰に乗じ出雲に落ち延びたが、尼子家への庇護は叶わず、大和へ落ち延び松永久秀に仕え、後に阿波蜂須賀家臣になったとされる。

福屋隆任(ふくや たかとう)


生没年:?〜1562
官位 :不明
居城 :石見国那賀郡河上松山城
列伝 :石見国人。隆兼の次男。父・隆兼が挙兵するとこれに従い、部将・神村下野守・援将・牛尾久清と共に河上松山城に籠るも、毛利軍の猛攻を受け落城。神村下野共々討ち取られた。

福頼元秀(ふくより もとひで)


生没年:?〜?
官位 :左衛門尉
居城 :伯耆国汗入郡瓦山城・米子城
列伝 :毛利家臣。天正一四年、四国征伐の最中に失地奪回を目論んだ伯耆羽衣石城主・南条元続が毛利領の西伯耆に侵入すると、元秀は瓦山城に籠り迎え撃つも付近の浪人達が南条方に与し不利になったので元秀は瓦山城を放棄し、尾高(米子)城へ退き、出雲よりの援軍と共に南条軍を撃退した。

藤井元直(ふじい もとなお)


生没年:?〜?
官位 :木工助
居城 :不明
列伝 :毛利家臣。市川元教の謀反の際、雑賀隆利・内藤元輔らと共に内藤隆春・市川経好に与し、元教を誅殺した。

藤嶋実直(ふじしま さねなお)


生没年:?〜1551
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。藤嶋家は藤原氏の流れを汲む名家。大内義隆に仕えていたが、陶晴賢の謀反の際義隆に従って戦死した。

藤嶋直立(ふじしま なおたて?)


生没年:?〜?
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :実直の嫡子。小早川隆景に仕えるも、後に周防久田村(玖珂郡)に帰農した。

藤嶋誠忠(ふじしま まさただ)


生没年:?〜1551
官位 :不明
居城 :不明
列伝 :大内家臣。実直の弟。陶晴賢の謀反の際には兄と共に義隆に従い討死した。

舟越通吉(ふなこし みちよし)


生没年:?〜?
官位 :淡路守
居城 :不明
列伝 :山代衆の一人。山代衆とは玖珂郡の山代と呼ばれる地域の有力者達の事である。
通吉は三分一・林・中村・神田・松原と言った他の山代衆と共に周防に侵攻してきた毛利軍に降り、錦見・甲田ら敵対していた他の山代衆を撃破した。

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