当時、防長両国は周防・長門・安芸・石見・筑前・豊前の六ヶ国を有する太守・大内義隆公が治めておりました。
特に、その本拠地である周防山口は、京都から戦乱を逃れてきた公家などが多数居り、まさに「西の京都」と呼ばれるにふさわしい発展振りでございました。
ところが、そんな外とは裏腹に、大内家内部は絶望的な深い溝が存在しておりました。
それは、祐筆の相良武任様を中心にした「文治派」と呼ばれた一派と、重臣の陶隆房様を中心にした「武断派」と呼ばれた一派との対立でございました。
義隆様は文治派に属し、重臣の方々でも、杉重良様、内藤興盛様などはどちらかというと武断派よりでした。
文化的発展を第一に考える文治派と、武力による勢力拡大を第一とする武断派は決して相容れぬ存在でございました。
何故、こんな対立が生まれてしまったのでしょうか?
両派の対立には原因が一つあったのです。
それは、天文十一(1542)年の事でした………。
〜回想〜
天文十一年。
当時、大内家と対立していた出雲の尼子家は、二年前の吉田郡山城攻撃失敗・前年の同盟国・安芸武田家、厳島神主家である友田家の滅亡・更に安芸吉川・山内・三沢・三刀屋・古志などの十三将の離反などにより、大きく勢力を減退させておりました。
これを受け開かれた軍議において、
「御館様! 即急に出雲へ侵攻すべきでございます!」
と、隆房様以下の訴えに対し、
「今はまだ時期尚早にございます。しばし待つべきかと」
と、武任様は反対致しました。
紛糾する軍議。
そして。
「………よし、隆房の意見を採用する。出雲へ侵攻し、尼子を打ち滅ぼすのだ!」
結局、隆房様の意見が通り、出雲侵攻が正式に決まったのです。
翌日から出雲侵攻へ向けての準備が始まりました。
……しかし。
「勢いに乗った侵攻か………尼子に足をすくわれねば良いのだが……」
毛利元就様など少数の方々は、この性急な軍事行動に疑念を抱いておりました。
ですが、そんな元就様以下の懸念をよそに、出雲侵攻の準備は着々と進んでいきました。
大内軍進撃開始の直前のことでした。
「と、殿! 尼子経久死去いたしました!」
「なに!?」
尼子経久は一代で出雲以下、尼子家の基礎を作った大黒柱でした。
その報を聞いた義隆様の喜びは計り知れないものでした。
勿論、尼子家は太守・経久の死に揺れています。
そして。
「いざ、出陣!」
大内家領国から集めた約4万の大軍が山口を出ました。
その途中、義隆様は国人衆の歓迎を受けたり、厳島神社に戦勝祈願をするなど、とても戦とは思えない行軍をしておりました。
結局、山口を出て、尼子家本拠地・出雲月山富田城を包囲するまでに、約1年の歳月をかけてしまいました。
その間に、尼子家派戦闘態勢を取り戻してしまったのです。
月山富田城攻撃案では、元就様と、田子兵庫介様・隆房様の対立がありました。
慎重論を唱える元就様を、隆房様は痛烈に批判し、自分たちの強硬論を押し通してしまいました。
もしこの時、元就様の意見を採用しておれば、今頃大内家は中国地方を制覇していたのかもしれません。
けれども後の祭り。
大内勢は知らず知らずのうちに敗北への第一歩を踏み出してしまったのです。
一ヵ月後。
攻めあぐむ大内勢の元に、驚愕の知らせが舞い込んできたのです。
「殿! 吉川以下十三将、尼子方に寝返りました!」
何と、出雲侵攻のきっかけとなった十三人の国人集が揃って皆尼子方に寝返ってしまったのです。
尼子経久が遺産代わりに残した大きな罠だったのです。
こうなれば勢いは尼子のもの。
烏合の衆と化した大内勢は、各個撃破されていきました。
主だった武将で、小早川正平様などが討ち死に。
義隆様・元就様も危うく命を落としかけました。
大内家史上最大級の敗戦劇。
ですが、この時、大内家に暗雲をもたらす出来事が起こってしまったのです。
〜出雲国揖屋(いや)浦〜
大内水軍が停泊していたこの湊も、大内勢敗退の知らせが伝わると共に、大混乱に陥りました。
義隆様の御養子である晴持様も、海路で撤退するために、大内水軍総帥の冷泉隆豊様と共にこの地に現れました。
「若様! この船に乗り、急ぎ周防へお戻りくだされ!」
「わ、分かった」
隆豊様の勧めに、晴持様はあわてて船に乗り込み、出航いたしました。
しかし、これが裏目に出ました。
兵の乗り込みすぎで船は転覆。晴持様は溺死してしまったのです。
後に山口に帰りついた義隆様はこの知らせを聞き、まるで生気を抜き取られたかのようになってしまいました。
〜回想終わり〜
それから、義隆様は変わられました。
連歌や能楽など、文化的なことにしか興味を示さなくなり、軍事には全く興味を示さなくなってしまいました。
更には、京からやって来たお公家様たちと遊興三昧。
それによってかかる費用は、確実に大内家の財政を蝕んでいきました。
栄華をきわめて行く山口の町とは裏腹に、大内家内部は修復不可能なまでの深い溝が出来上がってしまいました。
隆房様以下の武断派と、武任様以下の文治派の対立がいっそう深まってしまったのです。
義隆様は文治派筆頭である武任様の肩を持っています。
ここで、義隆様は両派の調停を行わず、趣味の世界に走ってしまいました。
このため、隆房様の堪忍袋の緒がついに切れてしまう日がやってきたのです。
………そして、運命の日がやってまいりました。
この日を境に、西国情勢は混沌の世界に向かってしまったのです…………。